幸せのありか

人は皆誰しも幸福を願います。

幸せになりますように。 これからも幸せでありますように。

自我の意識は、自分が幸せになることに余念がありません。

あなたの幸せとは どんなものでしょうか?

 

心地よい状態が 幸せだとしたら、

その心地よい状態が続いてしばらくしますと、何か物足りない感じがしてきます。

それで、また満足する状態を探し始めるのです。

 

自我は何が足りないのだろう? と一生懸命 自分を幸せにしてくれるものを探します。

何かを得て幸せを手に入れようと必死で探し回りますが、実際にそれを実現しても、とことん突き詰めても永遠の満足 というものが見つからないことに気付き始めます。

物を得た満足は持続性がないのです。

欠乏があって それを充足させた時に満足があるので、そもそも欠乏がなければ満たされる ということが起きないのですが。

 

何かを得る それがゴールでないことに気付き始めます。

はて、幸せとはどこにあるのだろうか?

スタート地点に戻ります。

 

ある人がこう言いました

「あなたはそう言うけど、それは得た人の傲慢な見解だ。私は得てみたいだけなのだからそれを止める権利はあなたにはない」

当然のことです。体験型の人はやってみなければ納得しません。

誰もそれは止めません。

やってみればわかることなのです。

なにせ、私もそういうタイプの人間だからよくわかります。

 

でも、もし カルマの衝動が薄い人であったなら 遠回りの体験をしたいと思う衝動は起きないでしょう。

やらなければ気が済まない という衝動は その人の持つ宿命でもあるのです。

もし、心が静かであれば、 ユニバース(世界)からのメッセージはすんなり体に入って感じられることでしょう。

カルマのノイズ(雑音)はそれらのメッセージをかき消してしまいます。

カルマは外に追い出されて 心がクリアにあってゆきます。

心が動揺する時、理性を持って観察してください。

私たちからカルマが出ていく瞬間を見届けて それと永遠にサヨナラするのです。

困った体験ではありません。

カルマが昇華された証です。

 

事が終わり、事態も心も静かになるのです。

あなたは 目を瞑り終わらせることも可能です

 

あなたの心が静まれば、その波動に呼応して 世界が穏やかに変化してゆきます。

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