ダルマ

前回の路子さんの体験談

真実を解き明かしておられます。

 

路子さんはかの熊本の震災で被災された時、

自分が握りしめていた幻想が剥がれ落ちた経験をされています。

命以外の大事なものなどなかった という感動を体験した と

震災後にお話しておられたことをつい先日のように覚えています。

 

喪失体験は ただ辛いだけの経験ではありません。

古い観念が崩れ去り 新しい意識が誕生します。

覆いを剥がされた真我の目覚めです。

 

私が目覚めを感じたのは 災害がきっかけ ではありませんでした。

私の場合は 依存していた人間関係が切れたことがきっかけでした。

支え合っていたと思っていた友人にとって

自分は必要のない存在だった と分かった時、

いえ、分かりかけた時、自分はそれを必死で否定しようとしていました。

そんなはずはない と思おうとしてひどくジタバタしたんですね。

なぜ 自分がそんなに取り乱すのか 訳が分かりませんでした。

でも、その時の私は あきらかにおかしな人になっていたと思います。

内側でもがくエゴは狂気に見えます

あきらめがつくまでそれが続くんですね。

 

何もない冷静な時には 想像もつかないエゴです。

そんなものは映画やドラマの中だけかと思っていたかもしれません。

でも自分の中にありました。

これは私が特に変な人だから ではなくて、

全ての人の中にある煩悩と呼ばれるものです。

 

自分がそうしておきたかった理想像を作り上げるために

どれだけのエネルギーをそこに注ぎ込んだことでしょうか?

他人事なら ずいぶん愚かなことだ と思ったでしょう。

でも、渦中では自分の姿など見えません。

自分のイメージの渦の中で 溺れまいと必死にもがき続けます。

これを失ったら 生きていけない ・・・そんな感じだったんだろうと思います。

 

そういうものを無理やり引き裂いていく現実は

非情 としか思えないのですが、エゴにとって現実は残酷なものです。

起きる変化は止められません。

エゴが圧力をかけて阻止すればするほど、流れのエネルギーは溜まりに溜まって

激しい崩壊に至ります。

 

そしてエネルギーの決壊、 挫折・絶望 がやって来ます。

エゴの死 です。

理想のイメージは 粉々に砕かれ たただの残骸となります

何もかも失った焼け野原のようなところで絶望に打ちひしがれながら

見つけるものは 何だと思いますか?

 

終わっていない生命活動です。

 

何も終わっていない。

 

命 という愛は 最初から変わらずに ずっと生きています

 

なんだこれは? と 泣き伏せていた顔を上げます。

何も終わっていない。

 

 

むしろ活性化したくらいです。

無くても生きてる。

ただ生きる命そのものを見るのです。

 

失うことへの恐れがぶっ飛びます。

 

そして知るのです

最初から何も所有していなかったし

そもそも 所有という幻想にとらわれていただけだった ということを。

 

私達現代人は 財産やお金というものにとらわれて社会を形成しています。

まるでそれらがなければ生きていけないかのように。

それは間違いです。

それらがない状態で生きたことがない人が そう思っているだけのことです。

 

社会やコミュニティーも様々な在り方があり、

私たちの意識が変われば それはいとも簡単に実現します。

だって、実際にそうして形成されている国が存在するのですから。

 

私たちが天国に住むか地獄に住むか

豊かさに住むか孤独に住むか は、

私たちのイメージ次第でどのようにも場面が変わります。

 

同じ今を どう生きるかは 私達のイメージ次第なのです。

そしてまた、そのイメージすらも 本当はあって無いようなもの

ただの空(くう)でしかありません。

 

私たちはいつでも 空(くう)に帰ることができます。

瞑想に親しむと、空はどこにでもあり

いつでも感じられることができるようになります。

 

体験シェア

熊本のヒーリングサロンさゆらを経営されておられる浅川路子さんと知り合ったのは何年前のことだろう、、

どれだけお世話になったかわからない。

本当に純粋で真摯な人柄の路子さんは お会いする回数は限られていたものの 深い信頼関係を感じている方です。

とても繊細な感受性と 物事を深く見つめ 嘘偽りなく向き合う姿は

清々しく 時に切なく 

そしてとても広く大きな愛を感じる人なのでした。

 

今日、路子さんの公開されたノートの記述を

みなさんにも読んでいただきたく、ご許可をもらって こちらにご紹介いたします。

先週土曜日にある映画を見に行きました。
映画自体は申し分なくすばらしかったのですが、意外と胸にがつんと響くものは無く、淡々と見終えた感じでした。
ところが、余韻に浸りながらエンドロールを眺めていた時に、なぜか突然に「自分という映画」のエンドロールを見ているという、すごくリアルな錯覚に陥りました。
すると急に嗚咽が込み上げて来て止まらなくなり、そのまま顔を隠すようにして劇場を出て、駐車場に停めていた車に乗り込みました。
車に乗ってからも涙はずっと止まりませんでした。
その時の感情を言葉にするのはなぜかすごく勇気が要るし伝える自信も無いけど、感じたことをそのまま書いてみようと思います。
その時訪れたのは「私個人の人生」というのは実は存在していなかったんだ、という理解でした。
自分という主体がいて、自分が考え、感じ、経験していくことの時間的な連続で形作られる、一人の人間という「中心」から成立する個人の人生。
その「私の人生」だと思っていたものは、強い強い思い込みでできていたこと、それが突然に実感をともなった理解として降って来た。そんな感じでした。
その時に感じたのは、あらゆるすべてが究極に完全に平等に、ただ現れているだけだということでした。
そう、ただ現れているだけ。
その中には自分の体も、そして「これが私だ」という個人としての自我も含まれていました。
個人としての意識・・・自我すらも、山があり木があり風が吹く、それらとまったく「同列」の現れにすぎないと感じられました。
そして、パラドックスとして、すべて同列に「現れていない」のだということも感じました。
現れは、まさにホログラムのように実体の無い儚いもので、その正体を知ってしまえばあっけなく消えてしまうような感じがしました。
それはまるで、知らず知らずのうちにかけられていた強い催眠術から、急に目覚めたような感覚でした。
それを全身全霊で感じた時に、すべてがただ愛おしく思えて涙がとまりませんでした。
それと一緒に、慣れ親しんだ世界とのお別れのような、悲しさと切なさがいっぺんに押し寄せて来ました。
その時にもうひとつ強く感じたのは、すべての人が、本当は決して欠けることなどできないのに、なぜか不完全な存在であるふりをしているということでした。
人だけでなく世界全体が、もともと完全でしかあり得ないものが、不完全であることで遊んでいるように感じました。
これまでの世界の見え方にはもう戻れないのかも。
そう思った時に、どうしても今すぐに家族に感謝を伝えたい衝動に駆られて、「こんな電話をしたら私が気が狂ったと思って心配するかな?」と不安になりながらも、車の中で何人かの家族に電話をして「どうしても今言っておきたくなって。本当にありがとう。」と伝えました。
似たもの同士の家族なので、こんな突飛な電話も不思議とすんなり受け止めてくれてほっとしました。
人も、世界も、思考も、感情も、人間関係も、社会で日々巻き起こる出来事も、そして「個人の人生」も、ほんとうにすべてが究極的にまったく平等な現れなのだと思いました。
そこには、何かの現れが何かよりも重要ということは一切ありません。
何かの現れが何かより優れているということも無ければ、何かの現れが何かより、より愛されているということもありません。
なぜなら、それを「現わしている」何かは、意図も思考も価値判断も概念も持たないからです。
その何かはとても言葉にできるものではないけど、人間が作り出した言葉でそれに一番近いのは「愛」だと思います。
人間が「愛」と言う時、どうしても人間的な視点のフィルターがかかりますが、ここで言いたい「愛」はそれとはずいぶん違うものかもしれません。
愛は、意味を知りません。意図もありません。目的も無ければ何かを目指すこともしません。
意味、意図、目的は、必ず何かを選び何かを排除します。
けれど、この現れの背後にあるのは意味、意図、目的という収縮した意識を持つことのない、無限に開かれた底無しの受容性なのだと思います。
愛にはどんな形もなく、時間的、空間的制限からも自由で、生まれもせず死にもしない。
意味、意図、目的もなく、まるで遊ぶように、愛は現れという見かけの形をとることがある。
だから、見かけの形、個性、違いに彩られた世界(自我・・・感情や思考も含めて)のすべてが、ただいっときの遊びの中で現れて、また無尽蔵の愛の中に溶けて消滅するだけなのだと思います。

無尽蔵の愛だけが存在の本性。
だから個人であるという現れの錯覚の中にあっても、突然に催眠術が解けて、無尽蔵の愛という本性の方が顔を出すことがあるのだなと思いました。

愛と執着 

日本語の『愛』という言葉には 2つの意味があります。

真我の愛と言われる純粋な愛 と 自我・エゴの愛である愛着の愛

愛着というのは執着の一種です。 引きつけられる衝動

 

恋愛は強い執着の衝動でもあり、エゴの愛

これは 前者の真我の愛とは質が違います。

 

じゃあ、あの人のは、自分のは、どっちだろう?? って思いましたか?

これはどっちかだけではないんです 何割かがどちらかで残りがもう一方。

その境目は曖昧でわかりにくく微妙。

グラデーションみたいに境目はわかりにくいものです。

自然物とは常にそういう作りかもしれません。

 

これは悪い事ではありません。どちらにも転ぶ ということです。

執着の恋愛が 真の愛に変わることも少なくありません。

 

エゴが真我の愛に変わる時、通る過程があります

それがカルマの解放です。

カルマはネガティブ感情ですから 抜けていく時はとても摩擦を感じます。

怒り・悲しみ・罪悪感・辛さ、 そんな感情が抜けていくのをしばし待ってください。

カルマは忌み嫌う敵ではありません。

私たちを育てる教師です。

 

沢山のカルマが出て行くことを喜んでください。

あなたからカルマが出て行って あなたはより真の愛へと変容していきます。

 

あなたが真の愛を見出す時、 エゴは同時に愛を知り

真我と共に生きるようになるのです。

雪割草

 

視野

人間の身体や機能って すごいと思いませんか?

例えば目、それはカメラです。

レンズを厚くしたり薄くしたりしてピントを調節する機能

瞳孔を開いたり絞ったりして光量をちょうせつして露出を合わせて

明るい所に対応したり暗がりに対応したり・・・

これは目はカメラよりもずっとすごいんです。

カメラのレンズは 同一画面では一つのピントにしか固定できませんが、

目の中のレンズは柔軟に縦横無尽に暑さを変えて

同じ画面の明るい部分と暗い部分を同時に見ることができます。

 

素晴らしい風景に出会って、その色の深さと空気感に感動して写真を撮ったら

色が飛んでしまってどうにも見たままの色が出せないのは そういうわけです。

どんな精密な機械も 人体の精巧さにはとても敵いません。

 

また、カメラがズームイン ズームアウトするように

視覚も対象物を絞り込める作用があります。

これは目のレンズの機能だけにたよるものでなく、それを解析する脳の機能もその働きを助けています。

 

目のレンズと、スクリーンである網膜には映っているはずのものが それを把握する脳で

一番注目したい者以外の情報は消えているのです。

見えているのに見ていない。

 

これは 人が危機感を持った時、

例えば原始時代に山で猛獣に遭った時、

その危機を脱出するために、全身で危険対象物に意識を向け対処するための仕組みです。

 

この機能は何億年も人類を存続させるために役立ってきました。

死に絶えないように守る仕組みです。

 

この機能は、小さな危機にも対応します。

ちょっと危ない事、集中している事、注目している事に意識を向けると

視野は絞り込まれます。

 

意識は対象物に集中し、それ以外のものが見えなくなる

 

そんなこと 意外と多いのではありませんか?

現代の私たちの身体に引き継がれる 古代の先祖のDNAとそのシステム

それらは私たちの無意識の状態でも常に働き続けています。

 

その機能はかつて役立ってくれました。

今でも危機には役立ってくれます。

そう、猛獣に襲われそうな時、

敵と刃を交えている時などです。

 

現代ではなかなか使いどころがなくなっているかも。

使われなくなった機能は、衰えるものもありますが、相変わらず無意識に機能しているものもあります。

 

あなたが見ているそのゲーム。

あなたのなかなか使いどころを失ったその機能は 使いどころを得て一心にそれに集中しているかもしれませんね。

また、敵とみなすもの、天敵とみなすもの、苦手と見なすものによく使われます。

あなたの視野はそれに集中して それ以外のものが見えなくなっていやしませんか?

 

もし、あなたが見ているそれが猛獣で 今にもあなたを噛み殺しそう  というのでなければ、

ちょっと視線を上げて、目の前に広がる広い世界へレンズを合わせて見てください。

 

あなたは とても平和な世界に暮らしていることに気付くことでしょう。

脳内の あなたを脅かすイメージは いますぐあなたを噛み殺すわけではありません。

 

あなたは ただ 一歩引いて 遠くの空と穏やかな風景へと

目線を上げてください。

 

そしてあなたを癒す場所へと 歩みましょう。

私たちはこの世界に抱かれて 生かされていることを身体全体で感じてみてください。

 

点ではなく 無限に広がる空を見てみましょう。

それは目をつむっても見える空(くう)でもあります。

 

カルマが無くなった心の内側は 快晴の空のようです。

広大な風景とあなたの心はとても似ています。

太平洋

変化

先日、生徒さんから嬉しいご報告がありました。

「先生!昇進しました!」

瞑想がヴァイオレットファイヤーまで進み、意識の器が大きくなると 人望を買われて人を束ねる仕事へと配置されるようになります。

ヴァイオレットファイヤーマントラ まで進んだ方は まだ多くはないのですが、

お仕事で独立されたり、

1年で2階級も昇進する人がいたりと 本当に驚かされてきました。

 

ヴァイオレットファイヤーマントラは 宇宙意識に進むマントラです。

出来事を大きな視点でどっしりととらえ 試練を受けて立つ度胸が備わる とも言えます

学びに対して 真摯に向き合うと 必ず道は開けますし

努力をして というよりも、ただ抵抗しないで手放していく脱力系の学びです。

怖れと共に手放します。

無理をするのではなく、ただ 自分の怖れと向き合い 怖れを流れに委ねることができれば

全ては大いなる流れに乗ることができるようになるのです。

 

何をするかが問題ではありません。

何かしてもしなくても 昇進してもしなくても 

そんなことは些細なことで

あなた自身が 流れそのものであることを体感するのです

 

この境地の感動は 表現することは不可能です。体感ですから。

 

何がどうなのか?  体験を通してしか理解できません。

 

人生は 私たちのイマジネーションよりもはるかに 奇跡です。

 

毎日の瞑想と共に 意識の変容へ興味を向けてみてください。

あなたは 毎日の日常で ただ 自分自身を眺めているだけでいいのです。

 

瞑想習慣と共に 時折、意識を意識してみてください。

何が自我の意識か 見えて参ります。

急がなくていいです。時が来ないと見えません。

まずはカルマの解放を進めます。

そしてカルマが去った後

突然それは見えてしまうのです。

フラクタル画像

もっと知りたい方は ぜひ瞑想会にお越しください

マンツーマンでじっくり対話してみたいという方は 個人セッションがございます。

既に伝授を受けた方の今後の取り組み方もご指導しておりますので 体面での指導をご希望の方はぜひご利用ください。

瞑想セッション、もしくはカウンセリングにてお申込みくださいませ。

これまでの自我の意識でとらえる外側の世界を見るようになります。

 

更に拡がりたい方、チャレンジしたい方は ぜひ。

何者にもならない(あるがまま)

今日は 中央市民センターで仏画の会でした。
例のごとく 写真を撮ることを失念しております。(苦笑

生徒さんの作品はすごく良かったのに 撮らないなんて残念過ぎました。sad

また次回までお預けです。。。

 

最近は 思考が一点集中型になってきているようで、

同時進行とか 並行して何か進めることが ちょっと苦手になってきた気がします。

たぶん、年齢のせい。。。

まぁ、そんなものです。

超人になろうとかなりたい という願望は 全くございません。

出来ることはできるし、出来ないことは出来ない

 これは諦めている とかいうのではなく、

そもそも願望自体が無い のです。

 

在る様に在る 

そういう生き方に変わって来ています。

 

これまでは 欲張って 人一倍何かをしたかったり、出来ることが喜びだったりしたこともありましたが、

それがどうした? という感じになってきています。

 

そうしたい人はチャレンジして充実感を得たり、なんでもやってみるといいですが、

それが無くても 何にも問題なかったりもします。

 

この世界の全ては ただ 在るようにある という普遍の真実を

ただ 微笑んで見ている意識でいるのでしょう。。。

 

観音さまは 微笑んでいますね。

私たちの内側で。

観音菩薩像

ダルマからの視点

スピリチュアル、精神世界のエネルギーの法則を知るようになって

この宇宙の成り立ちをエネルギーや波動で見るようになりますと、この世界がこれまでと違った一面がある ということに気付きます。

その視点からの宇宙の法則は 目に見える物質界だけでは説明のつかない 物理法則が存在することを知ります。

空気や水、電波の波があるのと同じように もっと微細なエリアの波動といものが存在する

その波動が物質に多大な影響を与えている現象が 神の為すこと としてとらえられています。

説明のつかない不思議な出来事、 奇跡とも呼ばれます。

でもこれは ある種の自然の物理法則で、まだ 人間の科学が簡単に測定できないえりあにあるものです。

これらの波動が可視化できたなら、私たちはもっとすごいもの

輝いてすごくきれいなもの や ひどく黒いもの を見ることになるでしょう。

今のところ、それらはほとんどの人が見えません。

 

でも、ある種の感受性が発達した人たちは それを感じるとkることができます。

特にその感受性が視覚と共感覚になっている場合は ビジュアルを見ることができます。

霊視 も これの一種です。


ですが、それは万人には起こりません。

共感覚を持っている者、第六感が視覚と筒流共感覚になっている者、

そもそも第六感が発達している人 は ごくわずかしかいません。

 

特に現代社会はそちらの感性を遮断する方向に発達したので

誰もがその能力を捨てている状態です。

 

何故そうなってしまったか というと カルマの解放は心地よくないので

どうしても逃げたくなる 見ずに蓋をしてしまいがち。

また、

エゴの感情 と 真我のフィーリング の見分けがつかない ということに引っかかって

自分の方向を見失ってしまいがちです。

 

エゴの感情 というのは概ねカルマの感情でもあります。

カルマの激しい感情は 真我のフィーリングをかき消してしまいます。

 

でも、困らなくていいんです。

カルマの感情は 解放してしまうと内側からなくなり、

内側には真我の意識だけが残るので

ただ解放して行きさえすれば 自然に真我に行きつきます。

自然の流れはただ悟りに向かわせます。

 それに抵抗するのがカルマ

 

更に、

真我の意識は カルマの体験で多くを学びますので 

最初から無い状態よりも 深い理解を得た真我へと成長するという利点を持ちます。

意識の成長した真我になるわけです。

 

私たちはいずれにせよ 体験によって意識を拡げ

進化していきますので どの感情も 恐れたり拒否したり回避したりする必要はありません。

 

感情に抵抗しないで解放してしまうことができれば

私達は自然と真我になり成長できるんですね。

 

まだその仕組みを納得できないうちは 何を言われているのかわからないかもしれません。

でも、事の流れ、この世界の変化を 違う視点で大きく見ることができれば

それはちっとも怖い事でもなんでもありません。

 

本当は体験よりも 頭の中にある 恐れのイメージの方がずっと怖いですから

そのイメージは速やかに手放してしまいましょう。

 

手放し方は ただ起きていることに抵抗しなければいいだけのことです。

 

解放が進み、エゴの感情が薄くなって、「自分が」 という意識が消えるほど

純粋な真我の意識に変容していきます。

日輪

カルマの雲が消えれば 燦燦と輝く真我の太陽が現れます

仏の導き方

私達人間は、悩みがあったり願望がある時、よく寺社に参拝に行きます。

神社は 浄化する場所

お寺は 苦を預ける場所  と言われ、ちょっとお願いの方向性に違いがありますね

願望だと神社・悩みだとお寺 みたいな感じでしょうか。

 

そう、仏教は 苦しみから解放されるための教えです。

仏教は 私たちが苦しみ悩むことを手放す手助けとなる教え なのです。

もう一回言います

 

仏教は、私たちが苦悩することを手放す手助けとなる教え です。

 

勘違いをしてはいけません。

「仏様、逆らってばかりの気に入らないあの嫁がひどい目に遭いますように」  なんて 願い事は叶うと思いますか?

「ムカつく上司が左遷されて居なくなりますように」

「娘が反抗するのをやめて 何でも素直に言うことをきいてくれるようになりますように」 とかもです

 

人間の願望は しばしばエゴイスティックです。

自分の気に入らないものを排除したい。

国家権力者が 自分にとって都合の悪い人達を 投獄したり、抹殺したりする あれ。

横暴ですよね。

仏さまはそんなエゴの手助けをすると思いますか?

 

人間は、自分が作ったカルマ(業=罪)は自分で清算するようにこの世は成り立っています。

そう 忘れた頃にやってくる。

自分がしただけのことを 別の人からされる というブーメランのような波動の法則があるんですね。

 

今、あなたは どんな行動を選びたいでしょうか?

この気付きと行動の決意(発心) が 仏のサポートなのです。

 

そして そんなあなたの思いに見合ったものが与えられる という流れを寄越します。

 

あなたが真実に気付くサポート、 あなたが浄化され、相応しいものを受け取れるようにサポートをしてくれるのが

仏の教え です。

 

ですからもちろん エゴにまみれた指導者の元では 何も学べることがありません。

さらに、裁きだけがあるような教えの場所も 悟りには至りません。

真にあなたを導くのはあなたのカルマと気付きです。

気付き方がわからない方は どうぞ瞑想教師をお訪ねください。

欲張らない生き方

瞑想を始めて以来、全国にいろんな友人ができ、幅広い交流があります。

中でも特に仲良くなった親友たちもいて、大人になってからこんなに信頼できる親友ができるなんてすごい事かも と 改めて思ったりします。

でも、珍しい事のように見えますが、それはすごく自然なことでもあるんです。

大人になって 親友ができにくいのは 心に遠慮や警戒など 壁を作ってしまうからです。

いろんな不安や恐れ、

嫌われることの怖れ、踏み込まれることの怖れ、摩擦が起きることの怖れ 

この世界への不信感ですね。

それが壁となって 他者とのコミュニケーションを妨げます。

 

壁があるぶん、よく見えず、あなたのアンテナは鈍ってしまいますね

相手をよく感じ取ることができず、ついつい表面的な情報のみで相手を判断することになったり

感じることをやめて ついついマインドだけで判断しようとするんです。

 

瞑想者は どんどん心がクリアになっていくので、そのような不安や怖れとは徐々に希薄になっていきます。

そう、解放が起きるたびに それらを脱ぎ捨てていくんですね。

 

カルマの感情こそ摩擦そのものですから

それらを感じた時は 即座にそれを手放してしまいます。

そのような不安や怖れとは徐々に無縁になっていきます。。

そう、そんな摩擦はもう要らないんです。

 

そして 自分の要らないものは手放し、本当に大事なものだけが残り 

私たちの本質 存在そのものに 気付いていくんですね。

 

真我

 

ここから見る景色は これまでと違います。

生きるものすべては友人であり、人は皆 同胞。

 

見ているあなたと この世界は一致する時がやってきます。

 

我 が消える時。。。

 

あなたの目は 真実を見

内側から愛が溢れることでしょう。

 

本当のあなたの第六感が発達した時、

あなたの洞察力は 霊能者以上になるでしょう。

答えを外側に求める必要がなくなります。

 

あなたは あなた自身の感性を感じ取るだけでOK。

あなたの内側は あなたに必要な体験のところに行きたがります。

 

自分以外の人々の感性も大切にしてあげてください。

それぞれが 自分の体験を通じて 魂を成長させていきます。

 

欲に溺れれると 苦しくなります。

執着は軋轢を生みます。

怖れはあなたを追い詰めます

起きていない不安を現実化してしまうのは あなた自身なのです。

 

手放してください。

大いなる流れ ダルマ を信頼してください。

あなたは このユニバースに生かされている存在です。

人生を大いに楽しむことができます。

縛っているのは自分自身の思い込み

それも 手放して 自然な流れに身をゆだねてみましょう。

 

真実のみの世界 shineキラキラした世界shineが見えるようになりますよ。

こころにかかる黒い雲 カルマ は ただ手放して  を 真我をshine輝かせましょうsun

そこには幸福感が満ちます。

阿蘇五山

寿命

8月下旬のある日、

母校の美大の同窓生のFacebookグループに衝撃的な投稿が駆け巡りました。

在学中から人望が厚かった後輩が 脳卒中で急逸したのです。

仕事の移動中 路上での出来事だったらしく、ロックされたスマホでは家族の連絡先を知ることができず、関係者の方が家族の連絡先を必死で探したのでした。

50代後半 まだまだ才能あふれる素晴らしい人柄のその人は 親友の待つあちらの世界に旅立ってしまいました。

あまりにも唐突な出来事でしたので ほとんどの人がショックを隠し切れませんでした。

 

その後、その人残した死生観などが現れるにつけ 悟りを得た者は学びを終え、お役目も終えると 旅立つのかな? とも思えます。

皆が涙しつつも 温かいものに触れておりました。

この世に執着を持たない者は 旅立つ時にとても身軽です。

 

この世の仕組みにまだ理解がないと 死は恐れの対象ですが、

実際は 私たちの意識 魂そのものは死にはしませんので

恐れるものなど 本当は無いのです。

 

人は 生まれて 生きて そして死ぬ、 そしてまた生れ変る。

苦があるとしたら 生きることで起きる不自由さと痛み なのでしょう。

また、肉体の生命には 自然の神秘が宿っていますので それだけではありません。

制限のあるものを使いこなす技術と集中と没頭 それによって生み出される三昧の境地。

肉体を生きることは 魂だけでは成しえない神秘体験もある ということも

とても興味深いことです。

散華

 

人間はイメージを操る生命体で 様々な体験をしますが、

これらのイメージはその人特有のものでもあり、全体の共通幻想でもある。

このことに気付くことで 輪廻という六道の苦しみから脱却することが可能になるのです。

 

痛みはあるが、悩みは存在しない幻想

これが腑に落ちますと、苦は激減します。

 

私たちは苦に生きる必要がなくなります。

 

もしあなたの中に苦があるとしたら、

流れに逆らっている抵抗の圧であると理解してください。

 

自然は常に 大きく流れゆく大河で その水は形を変えながらも無くなることはない

あなたの魂もまた 消えることはないのです。

あなたという個は 分散し 大いなるものと一体化する

悟りは全ての人に起きる

 

肉体が生きているうちにそれを知ることができれば、

生き方が全く変わってしまうでしょう。

あなたは楽しむことしか選択したくなくなるでしょう。

例え 困難に立ち向かう人であっても それはやりたいからやる という姿勢になります

そして わざわざ苦を生み出すような構造は作りたくなくなります。

 

人という生き物の 自我の摩擦は 生まれては消える つむじ風のようなものでしょう。

エネルギーの偏りは集団で作る台風

私たち人間の文明を 負ではなく正の方向に使えば

この世は極楽である ということを 私たちは気付いていくのです。

 

愛に気付けば この世は光に満ちた世界であることを実感します。

それはあなた自身の内側にあるエネルギー(愛)です。

カルマという覆いを取れば 溢れるばかりです。

あなたは 愛 という波動の増幅器でもあるのです。

この肉体をどう生きるか 選び直してみる価値はありそうですよshine

ELM瞑想はあなたの内面をパワフルに大掃除いたします。

そう、流れによって洗い流されます

瞑想と治水は似ているかもしれません。

水の流れをコントロールする 光の流れをコントロールする

どちらも浄化が起こりますshine

そう、私たちという存在も 光だということをお忘れなくshine

川の流れ