ダルマ

思考停止

先週の土曜日、ノンデュアリティのお話をする 雲黒斎さんのトークライブに行きました。

黒斎さんは、ノンデュアリティからの視点で、

これまでの私たちの思考が何を勘違いしてきたのか

すごいわかりやすい例えを使いながら 見事なお話で

我々の幻想を剥ぎ取っていきました。

 

ノンデュアリティ・非二元 のことは知っていましたが、

話を聞きながらまだまだ自我から見ている自分の意識をガンガン感じるので

笑ってしまいました。

 

その話を皆様にもお伝えしたいと思いつつ

 

・・・・

 

これがまた難しい (笑)

 

ピタッとブログの文章が止まってしまいました。(苦笑)

 

そう、そもそもの 考え方のベースからひっくり返さないと話にならないのです。

 

もう本当にどうでもいいんじゃないか  などと思ってしまう始末。

こういったお話は 説明が大得意な方にお任せした方がいいかもです。

 

雲黒斎さんは東京を拠点に 全国でトークライブを開催されています。

ぜひ一度お話をお聞きしていただきたい

 

だけど一つ注意しないといけないのは

今の価値観のまま 話を理解しようとしても無駄です。

枠に収まりません。

 

自分の思考の枠をぶち壊して 解放してくれるお話です。

枠を壊されたくなかった人は 超混乱します(笑)

 

どんな生き方をしたいかはそれぞれの人次第

 

悟りを体感したい方はぜひ一度お聞きください。

黒斎さんのトークライブ情報などはこちらのツイッターもしくは

facebookで見て見て下さいね。

明後日は大阪のようです。

https://twitter.com/un_kokusai

https://www.facebook.com/kokusai.un.5

 

 

clover  clover  clover  

悟りの面白いお話をして下さるのは 黒斎さんだけではありません。

明後日7日(土)午後

アトリエ霽月に koji-kinさんが来られて

社会の構造に絡めて 悟りの視点からお話してくださいます。

 

まだお席がありますので 明後日お暇な方はぜひ足をお運びください。

 

参加費はドネーション制ですので お気軽においでください。

 

自我と真我

真我の意識は見つめています。

あなたの生を見つめています。

 

自我は理想を求め

人生を整えようとします。

おぼろげに見聞きしたもの、体験した出来事の中から

好ましいと思われる基準を模索しながら

自分の人生を理想的なものにしようと

日々努力しています。

 

理想として採用している基準が 正しいとは限りません。

最初はその環境の中で有利に生き延びるために必要な事

優越感 お得感

自分が快と感じた出来事

教育されたこと

親が喜ぶこと

賞賛を得られること

欲を満たせるもの

正しいと思えるもの

 

でも、ある日気付きます

頑張っているのに なぜ幸せに手が届かないのか?

 

私たちは人生の迷子になってしまいます。

 

仏教では この状態を 無明 と言います

 

知らず知らず幸せから遠のく努力をしてしまっていた

何が間違いで何が正解なのか

もがけばもがくほど 幸せは蜃気楼のように消えていく・・・

 

もうその方向性が幸せへの道ではないことは わかり始めています。

 

真我は この世界の歪みに気付いています。

居心地の悪い歪みは どうすれば解消されるのか

 

自我は表面だけ見ていますが

真我は根底の問題に気付いています。

 

それは現代人に与えられた今の課題でもあります

 

あなたが真我を感じ取り 真実に気付くと

あなたの周りの100人も気付きます。

あなたがカルマを手放し

真実を生きるようになるからです。

存在の美しさがそこにあります。

蓮葉の露

 

物惜しみ

私たちはこの世界をどう見ているのでしょうか?

起きていることは一つですが それをどうとらえているかは様々です

 

自動車事故に遭った時、ある人は

「畜生、なんてこった忌々しい!どこ見て運転していやがるんだ!車に傷が入ってしまった、修理代どうしてくれるんだ」と怒り心頭

自分の責任を回避して 事故った相手にどうやって責任を負わせようか必死で考えます。

 

また ある人は

「ああ、びっくりした。どれだけのことが起きたんだろう?

そうか、この程度なら大したことない。怪我をした人がいなくて良かった」

 

同じ程度の事が起きた時、その後の展開は 両者で大きく変わります。

前者は長らく揉め、後者は相手も態度が軟化するので必要最小限のことを痛み分けします。

 

始めて出会う人との関わりをどんなものにするかで 個人の人生や縁は変わります。

事故で出会ったその人と その後 友人になるかもしれません。

 

目先の損得勘定で未来の豊かさを失うのはもったいないことです。

仏教で、「親切でありなさい、物惜しみをしないように」

と 説かれるのはそのためです。

 

スピリチュアルのことを学び始めて

損を引き受けると 神様からご褒美が来る  というような体験を

何度もしました。

人が嫌がることを引き受けても同じです。

自分にできることならします。

 

ただ、自分に出来ないことを引き受けると苦しみます。

私たちは 私たちに出来ることだけをし、出来ないことはできないと言います。

したくないと思うこともしない方がいい。

それは無理にすると「あの時してやったのに!」と恩を着せてしまうからです。

人に親切にするのは、神や仏をご供養したり この世界を癒すためです。

何かを得るためにしているのではなく、

みんなが幸せな平和な世界、住みやすい環境を作るため。

恨みの気持ちを作るくらいなら何もしない方がいいのです。

恨みは毒のようなものです。

あなたは あなたの土地に何を撒きたいのか

いつも無意識に選んでいるのです。

 

荒れた土地は耕して草木が育ちやすくするように

人間関係に愛をもたらすのは あなたです。

あなたの世界は あなたが創ります

優しさ

何を選ぶか

何をして良くて 何をしてはいけないのか

色んな基準があると思いますが

スピリチュアルのことを知るようになって最初に衝撃的だったのが

「神は私たちが何をしてもいいと思ってる」 ということを聞いた時でした

いやいやいや、そんなことはないでしょう・・・ coldsweats01

宗教には戒律があるし、この世界でしちゃいけないことって 凄く沢山ありませんか?

犯罪とか 人殺しとか 虐待とか 悪どい事とか ドラッグとか?

 

いえ、違うんです。

この世界は 何をしてもいいけど、

したら幸せが増えることと、したらひどい思いをすること が あるだけ

のことなんです。

 

で、そのどちらも体験してみて確認している人間がいます。

望む望まざるに関わらず、担当者は実践いたします。

 

在ったことのない犯罪は まだそれを裁く法律がありませんが

犯罪は 人間がそれをやって 多くの人々が物心様々な面で傷付くので

それはしないことにしましょうね という 人間社会の取り決めによって禁止されるものです。

これは神様が裁いているのではなく、

人間たちのマインドが 社会を整えようとしてやっています。

 

ただ、気を付けないといけないことがあります。

ルールを作れば生きやすくなるのか?というと そういうものではなさそう。

 

ルールは 役に立つこともあれば、そうでもないものもあり

法律は 言葉で記述され、その言葉だけが形骸化してしまうと

言葉に当てはまったものだけがOKで、それ以外は全部 ? とか

あるいはルールに沿わない全てが裁きの対象になってしまいます。

そう、融通がきかなくなるのです。

例外が認められなくなる。

 

最近話題のブラック校則などもですね。

整えるためにあったらいいもの なのでしょうか?

それは誰の基準で?

 

生徒が髪染めで金髪にすると この学校は不良がいる、レベルが低い 

なんていう社会からのレッテルを恐れて

髪は黒くなければいけない という校則を作ると、

地毛が茶色い生徒に髪を黒く染めさせる なんて馬鹿げたことになる

 

持って生まれたありのままの自分を否定される ということがどれだけ個人の尊厳を傷つけているか

校則を作った人は考えが及んでいません。

個人の尊厳を無視したルール

 

今ある悩ましい出来事をコントロールして排除したいエゴは

とても視野が狭いのです

 

もしあなたの周りに奇妙なルールがあったら、決まりだからと鵜呑みするのではなく、

また、嫌だと毛嫌いするのでもなく

 

それは何のために あるいは 誰のために作られたルールなのか ちょっと考えてみましょう。

知っていて合わせていても、それにとらわれていなければさほど問題にはなりませんが、

既存のルールでも もうすでに役割を終え、時代の変化に対応できなくなっているような 誰も幸せになれないルールがあります。

それは現実的にも再検討する必要があるでしょう。

この世界は常に変容しているからです。

このことを 仏教では 諸行無常 と言います。

籠の鳥

幻想からの解放

私たちの苦悩は、幻想である  ということを

紀元前5世紀に お釈迦さまは気付きました

それ以来 お釈迦さまは

人々が苦悩から解放される方法を説いてまわり、

多くの人が苦悩から救われました。

それが仏教です。

 

でも、宗教というものも長く続きますと形式だけが残り内容が薄れてきて形骸化してしまいます。

仏教の本当の意味を理解する継承者が途切れてしまうと、

そこで仏教はただの伝統儀式になっていきます

後世の人々は意味を分からず形だけ受け継いで廃れてしまいます。

 

悟りというものを理解するには

悟り体験 という体験が必要です

これは理解すること とは また違うのです。

自我の煩悩を抱えたまま、それに気づかず、悟りを理解したとしても、

悟りを伝えることができません。

多くの僧侶たちが 悟りを知らないまま仏教を教え伝えることで

仏教は教えの内容が全く違うものになっていきました。

そこには仏教の真髄はありません。

煩悩は湧いては消え湧いては消えするものですが、

湧いたまま消えずにそれに振り回されているのが

多くの人々です。

 

苦悩から解放されることは

苦悩を無いものにする ということではありません。

苦悩してはいけない ということでもありません。

苦しめる人が悪い ということでもありません。

苦しむ人は愚かである ということでもありません。

苦悩が心の内から消える  ということです。

これは あなたが意図的にすること とは ちょっと違います。

 

苦しみを作っていた幻想が消えてしまう ということです。

 

つまり苦しみを生み出していた原因に気付き、

それが幻想だったとわかって、幻想が取れてしまう ということ。

 

悟った瞬間笑いだす とよく言われますが、

これは、「え?なんや、しょーもな!」(関西弁)みたいな。

「え~、なんだ、意味ないじゃん!そんな無意味なことにしがみついてきたのか!?」 って いう馬鹿馬鹿しさからの解放の脱力の笑いなわけです。

これまでどれだけ実体のない幻想に執着し、怖れ、人生を捧げてきたことか!?

 

自分のものとか、取った取られた、とか、損した得した とか

あんなことがあった、なかった、

こんなことが起こるかもしれない

起こったらどうしよう

起こったら嫌だ、怖い、とか。

逆らえない とか こんなはずじゃなかった とか

こんなんじゃ嫌だ とか

そうあなたのお悩みそのもの。。

 

すべて頭の中にある お悩み というイメージです。

 

今 あなたが、与えられている 今 をどう生きるか だけになりますと

悩みはそれほど大きくなりません。

あなたはしたいようにどちらかを選べばいいだけなのです。

失敗しない人生など つまらないですから

失敗体験も味わい深い人生の一コマです。

あなたはあなたにしかできない人生の旅人なのです。

旅を楽しんでください。

 

旅を穏やかにする方法があります。

それが仏教の教えであるように思います。

 

戒律などは重要ではありません。

カルマが消えた静寂の境地を 瞑想で体験することができます。

一朝一夕には成就しません。

日々の瞑想習慣がそれを可能にします。

瞑想中

寂しさ

人は人生の中で 少なからず寂しさを経験します。

 

愛するものとの別れ

ひとりぼっちの時間が長くなってしまった時

誰も頼れる人が周りにいない時

心細い時

悲しい時

 

胸の奥がキューっと締め付けられるように痛く 

あるいは 胸の中にぽっかり穴が空いて 冷たい風が吹き抜けるような

そう寒さみたいな あの感情。

 

心の内に満たされて欲しい 温かい愛のエネルギーが途切れて

心のコップが空っぽになった感じです。

 

このままそのコップは空っぽなのか?

思わず涙が込み上げてしまいそう。

 

愛のエネルギーを見失うと 人はそんな風な身体感覚を持ちます。

 

愛のエネルギーって何だと思いますか?

どこから来て どうやったら手に入ると思いますか?

 

愛 は人生にとっては大きなテーマかもしれません。

 

どうして私は愛に満たされていないの?

そんな風に思ったら それは

誰か愛してくれる人がいなくなったからではありません。

 

自分の愛し方を知らずに今まで来てしまっただけのことです。

自分の愛し方は 自分が当然愛される存在である という自覚を持つだけのことです。

「それなら、自分は愛されるに値しない」なんて思ってやしませんか?

違います。

全ての生まれ来る生命は 神から愛されています。

他の生命体から愛されることを愛だと思わないでください。

愛は、自分が何かを愛する エネルギーです。

 

愛される というのは、自分自身に愛されるということが大前提にあります。

 

自分自身に愛されていないと 人から愛されようとしますが、

人から愛される という満足の感覚は じきに薄れてしまいますので、

自分を愛せるようにならないと 他者からの愛を信じることもできません。

 

あなたの中にあなたという命がある限り

あなたは愛されている存在なのです。

 

神さま って どこかにいるのではないんです。

あなたの命そのものと神は 同じです。

あなたの意識が 神である命と分離している時

あなたは命を愛することができません。

 

あなたは 愛されて生かされています。

 

じゃあ、どうしてこんなに人生が辛いの? と思う時は

あなたはあなたの命を生きていないことに気付いてください。

自分の命を生きる というのは

自分に正直になることです。

 

寂しい

辛い

悲しい

悔しい

 

自分の本当の気持ち 素直な気持ちを見つけることができれば

ネガティブな感情は解放され

あなたはあなたの命を見つけることができ、それを愛することができるようになります。

 

なぜかそれをダメだと思い込んでしまった

ダメ という基準を捨てて下さい。

 

感情は解放されて抜けていきます。

終わりがあるのです。

 

抜けて0になったら、

 

あなたは あなたの願うように生きてください。

あなたを愛して あなた自身が生きたいように生きてください

間違ったと思っても いつでも方向修正可能です。

 

花は光の方向に伸びます。

あなたも愛の方向に伸びようとします。

自然のままに生かしてください。

抑え込むのではなく 手足を伸ばすように心も伸ばしてください。

そこにあなた自身の愛が芽生えます。

忘れな草

誰かが思い出そうが出すまいが

誰のためでもなく

私は私のために咲いています。

誇らしげに。

そんなあなたの姿が人々の記憶に残ります

愛と癒し

愛って栄養みたい
そう植物の養分
土の養分 豊かな大地に育つとすくすくと葉が茂る
肥料は効果的に投入すると植物は元気になる
肥料をあげすぎると 逆に元気がなくなったり
植物によっては 肥沃な大地より荒野の方が向いてるものたちもいますから
当人に丁度いい養分の量がありますね。
 
私たちは一方的に愛を無理やり押し付けると それが相手にとってはどうかはわかりません。
愛は ただそこにあるだけでいい。
人はそこにある愛を感じて皆が癒され、元気になります。
 
魂は愛を受けるよりも
自分から愛を発することで大きく進化します。
 
辛い試練に見舞われた時でも
そのことで愛に目覚め、それであなたの成長のきっかけになったなら
それは素晴らしい体験なのです。
 
いさかいが起きて、誰かと衝突して
辛い気持ちや悲しい気持ちを味わっても
そのことと向き合っているうちに
いろんなことがわかってきます。
自分の気持ち、相手の気持ち
自分の事情、相手の事情
自分の本心、相手の本心
 
想像ではない 真の姿
 
本当の事がわかったら、それは愛に溶けてゆきます。
誰もわるくなかった ということがわかる。
 
このことが起きてよかった。
誤解を解いて和解することもできますし。
 
あなたが素直になって向き合ったり、相手を許す気持ちになれば
相手もあなたに愛を向けてきます。
誰も悪くなかったのよ と分かる日
愛で満たされ、癒しが起きます。
奇跡の瞬間です。
 
私たち人間は、愛を学びますと、

その課題をもう来世ではする必要がなくなります。
 
更に私たちの子供も同じカルマをしなくて済むようになります。

幸福な大人のところに生まれてくる子供は どんな条件でも十分愛されるのです。

(愛され足らなくても悲観することはありません。生まれてくる場所や身体の条件は様々で どんな人生を選んでくるかも 承諾済みで生まれてきますし、その学びをしたくてその条件を選んで来ているのです。)
 
大きく成長したいと望む魂は 大きな試練を選んできます。
それを通して この世界は愛で出来ている一つの生命体だ ということに気付いていくでしょう。
 
経験はなんだっていいんです。
 
思いっきり幸せに生きてください。
自分がしたいことをしていいんです。
取り組むのは今、目の前にあることだけで十分です。
 
流れに抵抗して圧を作っているのは自分だった ということに気付けば
世界は一瞬で変わります。
秋桜に囲まれて

 

 

 

 

 

 

愛 

愛は とても優しい思い なのですが
ただただ優しいだけのことじゃない
 ということは皆さんもご存じかと思います。
それは
愛のムチ とか? coldsweats01
ムチはどう見ても愛じゃないですけど(笑)
厳しい言葉は 愛であることも多いですよね。wink
 
その人のためなら 甘やかさずに叱ることもあるし、怒ることもあります。
怒りたいわけではなく、その人に叱ってくれる人が必要なら叱ります

手に負えない時はやめときますけど。(笑)
 
叱る というのはある意味信頼があるからできるとも言えます。
それを受け止めて成長してくれる という信頼
すぐにわからなくても、いずれかならず理解する という信頼 です。
 
神様も私たちにそんな愛を向けていますね。
 
必要な体験を与えて 自分で気付いて行くのを待ってくれます。
 
多くの成長のきっかけを与えて 見守っていますね。
 
すごく応援してると思います。
同じ観点で、私たちが他者に愛を向ける時、
相手(の魂の成長)にとってベストな行動がとれますと、結果が出ます。
 
あなたが、エゴではなく 愛を向けると
相手は必ず成長します。
 
見守られる本人は 手放し難いものを手放す時には少なからず苦しんだりもしますが、
それは産みの苦しみですので 無言で、いえ、有言でも応援 です
「がんばれ、乗り越えろ!幸せをつかめ!」と。
 
でも、本人が抵抗している時は時間が必要です。
必要な時間を待つ というのも大きな信頼ですよね 
 
そうでない時は、エゴで急かしたりしますが、
そんな独りよがりな愛はうまく流れませんので、
 
私たちが何かをコントロールしようとするよりも、大いなる流れに
「お任せしますよ」と言った方がずっと仕事が早いんです。(笑)
 
流れを信頼し始めると、多くのサポートたちが動き始めますよ!
 
サポートさん(守護霊とか)のやり方は、途中経過が少々荒っぽいんですが(笑) ちゃんと着地します。
 
ガーディアンエンジェル などと呼ばれるこのサポートさんは
霊なのか 神なのか 天使なのか 気のせいなのか 
はっきりしたことは証明できませんが
目に見えない力や意識が 私たちに働きかけていることは確かです。
もしかしたらそれは私達自身が発している波動そのもののことかもしれないです。
だからこそ 愛に立っていたい。
 
私たちはただ、心を穏やかに 自分を幸せにしておくことだけで十分なのです。
瞑想して命を感じる。生きていることを喜んでいるだけで、
世界にパワーを与えます。
喜びの波動は力です。
 
ハッピーな気持ちが復活して来たら 
周りの人に優しい気持ちを向けてください。
 

その愛が 豊かさをもたらすのです。
 
秋桜

 

 

 

 

愛する

愛することができる  というのは
我慢ができる ということとはちょっと違うんです。
真の愛には我がありません。
 
愛することには理由も目的もない。。
愛はただそこに溢れてくるのです。
 
真の愛というのは、見返りを求めることが無い愛のことです。
自分の身体を護るのに理由がないのと同じ 
そう、当然 というか、そうしない選択肢がない
そういうもののように思われます。
 
 
自分自身に愛を向ける時
自分で自分の不満に向き合うと
(自分を愛して、自分の気持ちをあるがままに受け止めることができると)

自我はその思いを解放し始めます。

そして内側の怒りやイライラ(カルマのエネルギー)は解き放たれて無くなってしまいます。
これが癒しになります。
 
愛は 相手を甘やかすこととも違います。
相手のエゴの言う通りにすることが愛なのではないですから。
相手の思いを叶えること ではなく、
ありのままにさせておくこと(泣く時は泣かせ、怒る時は怒らせる)
 
相手の体験を肩代わりしてやることはできないんです。
つまり 自分のカルマは自分にしか終わらせられないんですね。
あるがままを受け止めたくない時は抵抗して苦しみますが、
それを代わってあげることはできないんです。
 
カルマは罰ではありません。
進化するための体験です。
本人にとって大切な体験 ということです。
 
困った人、周りの人をかき乱す人 というのは、
みんなに嫌な思いをさせて問題提起をする人でもあります。
誰がその役目を負うかはなってみないとわからない。
生き方が失敗したからそうなるのではなく、それをやる役目でこの世に降りてきた ということらしいです。
周りの人の魂を成長させるため。
 
家族の中に問題児がいる としたら、
一族の中に潜在的に残っていたカルマを明らかにして終わらせ、
みんなの魂を成長させます。
 
まわりは、自分が愛でなくエゴだったことに気付き、全てに愛になる道筋をつけていくの人です。
この役目を負う魂は 嫌われ役をわざわざ買って出るほど勇気ある魂 とも言われています。(汚れ役 ですかね。(^_^;))
 
私たちはただ純粋な愛になればなるほど、自分自身が幸せになれます。
出来事は自分を傷つけることがなくなり、
世界の全てに向けられる自分の愛が巡って自分自身も満たします。
 
愛は溢れるもので 誰かから奪うものでも 絞り出すものでもないんです。
 
カルマは
終わらせる経過としては ただ 周りを在るがままにさせておいてください。
自分自身にも、感じている在るがままを受け止め、あるがままでいいよ と自分に言います。
カルマが抜けてしまえば、気持ちが勝手に変わります。
 
行動は できることなら愛を選んで下さい
でも、あなたのハートが 「そうではない!」と言うなら
そうでなくていいのです。
 
他人がどうであるか や 理想 は、気にしなくていいです。
あなた自身がほんとうにそうしたいように生きれば良いのです。
私は本当はどうしたいのか? と自分に問うてください。
 
あるがまま というのは あなたの望む今を生きることです。
 

 

愛を思い出す

空のお話をすると 全てがぶっ飛んでしまいますね。
良いも悪いもなく苦悩も悩みも消え去ってしまいます。
 
しかしながら 身体を持つこの世界では 
身体の感情に揺さぶられることも多いです。
 
そんな感情のことを書いてみます。
 
人の心は複雑なようで実はとてもシンプルです。
愛されたい という思いです。
全ての問題(カルマ)がここか満たされないために発生します。

 
カルマが無ければ子供は本来無条件に親から愛されますが、カルマはそれを邪魔します。
何らかの事情や感情が挟まってくる場合です。
親が真っ直ぐに子供を愛せない事情。。。
 
特別なことではありません。
実際は満たされていないケースの方が断然多いのです。
 
それで、親が素直に子供を愛せず、愛の足らないまま大人になってしまった子供は、インナーチャイルドが満たされておらず、
まだまだ愛情が足りないよ~、もっと愛してほしい~ というメッセージ(承認欲求)が起き続けます
でも、
残念ながらそれはなかなか 叶いません。
 
大人になってからは、愛することができる人がたくさん愛を受けとる法則性がある からです。
自分が発したものしか返ってこないんですね。
愛を欲しがっている人は自分が愛することを忘れています。
でも、沢山の体験の中で少しづつ思い出していくこともできます。
 
愛に触れないまま人生が続くこともあります。
 
それに気付くには多くの年数がかかることも多いです。
いえ、何度も生れ変らないとわからないことかもしれません。
愛が足りなくてもがく人生に嫌気がさして
自分から愛になることに気付いて
与える幸せになろうとするまで
その苦悩は続きます。
 
ただ、周りに愛することができる人がいると、そこから人の愛し方を学びますので 
愛せる親を持つと愛せる人になるのは簡単です。
 
親だけが見本ではありません。
先生や友達や、恋人や子供、それ以外にも 関りのあるすべての人から学びます。
愛することができる人の周囲の多くの人が愛に目覚め始めます。
 
愛は共鳴して癒し、伝染していきます。
 
あなたはもう愛に感染しましたか?
 
この世界に愛が蔓延しますと 愛されない人はいなくなるでしょう。
 
あ、これは言葉がちょっと違っていますね。
正確に言うと、
愛されないと思い込んでる人はいなくなります。