ダルマ

経典

このところ 瞑想マスターの系譜に関する資料を読んでおりまして

今まで聞いたことはあったけど、よくわかっていなかったお話に没頭しています。

ヴェーダ とか バガヴァッド・ギータ というインド古代の経典です。

経典の翻訳は 日本語で和訳されているものもあるのですが、言語がわかって読んでも難解なのだそうですが、最初に書かれた経典を後のマスター達が解説を交えて読み解いて、より理解しやすいものへと編纂しなおす ということが為されています。

それらの古代からのサンスクリット語の文章が英語になり、更に日本語になり

私たちの眼に届くのですが、これらの資料の共有や編集が現代のオンラインの技術により目覚ましく進化している ということにも驚きと感動を感じています。

私は文字を読むのはそれほど得意ではない方なので ちょっと時間がかかってりますが、経典の内容が立体的なイメージとして把握されてくると わかりやすく皆さんにお伝え出来るかもしれません。

 

これらの古代の経典に書かれていることは、すなわち 「悟り』 についてです。

悟りの為し方 

瞑想 と 手放すこと に尽きます。

元々私たちが身体と心を持って生まれてきた時に、この体に備わっている性質にエゴや執着や本能の衝動というものがありますので、

何も意識することなく心の赴くままに生きていきますと、最初はエゴが発揮されて周りとの衝突(エゴ同士の衝突が起きます)

これはとても自然な流れです。

でもその衝突と摩擦で 苦しみや怒りや悲しみが生じてしまうんですね。

これがカルマ

エゴをもっと強くして 奪うということで それらのネガティブな感情を減らそうとしても 解決はしません。

奪えば奪うほどに 外側に犠牲と更なるカルマが増大して

やはりカルマに包まれてしまうからです。

それではどうしたらいいか?

それは

奪う ということを放棄して、

自分の欲望そのものを 放棄してしまうこと と 経典には書いています。

そうしますと、摩擦が起きない

 でも、これは一足飛びにこの境地には 及びませんよね。

手放す意味を納得せずに手放すことは至難の業です。

 実際は 手放しきってみるとその意味がよく分かるのですが、

手放したことがないマインドは 手放すことは 自分の身を危険に晒すことと感じています。

特に自分自身の一代だけのカルマ だけでなく、先祖から何代にもわたって受け継いできているカルマが強力な負のイメージを持っているので

そちらの方が正しい見方だと思い込んでしまっているからです。

常識とかルールとかになっている場合もありますし、世界観そのものをネガティブに作ってしまっている 幻想の世界観を生きてきた人々にとっては、真実が信じられない という感覚になります。

これを読んでおられる皆さんは もうすでにその幻想から脱却した方も多いので

ああ、それは そういう人もいるね

という感想をお持ちになるかもしれません。

でも、まだもう少し その世界観はあなたの中にも残っていますので

これらから自由になるために 毎日の瞑想をなさってください。

瞑想すればするほど、あなたのカルマは薄れていくからです。

 

瞑想時には あなたの意識はカルマに絡まれない世界にいます。
それは違う世界というのではなく、

カルマがある世界の外側にいる つまり 

神の領域に 意識が拡がっている ということなんですね。

その領域は霊界の外側でもありますので あなたはそこではカルマの無い世界を体験します。

自覚があるかどうかは問題ではありません。

瞑想中のカルマの掃除が騒がしい状態でも、30分の瞑想時間中に 

あなたの意識はカルマの無い領域『空』を体験しています。

 

その『空』に馴染むようになると、

あなたの意識は 不安や怖れや欲、罪悪感 などの強いネガティブ感情が絡みにくくなります。

いつしか あなたは それらの感情があなたの意識の邪魔をしなくなる体験をするようになります。

 

もし、あなたが、いずれかの感情で 強い苦しみを抱えていらっしゃるなら

アトリエ霽月までご相談ください。

カルマの殻を脱ぎ捨てるのは あなたの意図次第です。

 

悟りは 古代のマスター達だけのものではありません。

現代ではその教えを理解する人々が増え続けています。

きっかけは 人生の行き詰まりです。

 

一人一人の人間が 苦を手放し

幸福感を感じながら生きる生き方を選ぶことができます。

あなたがそれを望むならば 難しい事ではありません。

 

難しい経典を読み解かなくても、

あなたの感覚が悟りを掴みます。

マントラは ただ、執着や怖れを排出させてあなたを進化させます。

あなたはどのような状態でも、ただ、起きている事を観察してください

ビシュヌ ナラヤナ

瞑想、特にELM瞑想はとても簡単です。

マントラと共に リラックスして  空(くう) に浮かびます

あなたの中から カルマが抜けていきます。

 

ELM瞑想ご教授いたします。アトリエ霽月にご相談ください。

それと、

停滞を感じておられる瞑想者がおられましたら 

突破のチャンスですので 一度ご連絡下さいませ。


他の教師から伝授を受けた方や 他の瞑想法を実践されている方でも

ご相談に応じます。

宗教や宗派などに関わりなく 瞑想をすることができます。

ELM瞑想はどこの宗教団体にも所属しておりません。

すべての宗教は 真我-大いなる存在 に通じています。

それを古代インドでは ナラヤナ と呼んだのでしょうか。

意識の進化の時

今は人間の意識が進化する時です。
これまでのエゴ優先の意識だと混乱と奪い合いが起きますが、意識を進化させて分かち合う、助け阿会う という意識になれば 世界は救われていきます。
これがアセンションです。
古い意識の終わりと 新しい意識への進化
新しい意識とは悟りやワンネスのことでもあります。
その意識に進化すれば私たちは救われますし、エゴにしがみつくと自滅してしまいます。
地震・豪雨・火災などの災害、国同士の摩擦、消費税、コロナに次ぐ食糧危機 試練が続き、私たちが独り占めしたり奪い合ったり喧嘩をしないで互いに助け合う意識になることを促されています。
もし意識が助け合いへ移行しますと、私たちは不安や怖れに支配されることはありません。

 

アフリカでバッタが大量発生

愛になる試練

今の時代に起こっている災禍は、

ただの一時的な不運 ではありません。

 

私たちの魂が選んでいるのは 魂の成長です

成長の行き先は 悟り 啓発 アセンション、そう意識の進化です。

そこに向かうために必要な体験をもたらされているのが 今です

 

執着を持っていれば それがひどくあなたを苦しめることでしょう。

その苦しみは執着を手放すまで続きます。

 

怖れを持っていればいるほど、そのことは現実となり

あなたからなにもかも剥ぎ取っていきます。

 

何も持たないあなたでも大丈夫な事を証明するために。。。

持っている という幻想は無慈悲に打ち砕かれるのです。

私たちは最初から何も所有していません。

ただこの世界の対流の中にいて 目の前に流れてきたものをただ一時

世界から借りているだけなのです。

流れは常に流れ続けますので あなたの目の前はずっと同じではないのです。

流れはやって来て過ぎ去ります。

諸行無常です。

何かが無くなったとしても また流れは新しいものを運んできます。

変化を恐れないでください。

執着を手放し、流れに乗ってください。

そこにはアセンション 新しい時代が待ち構えています。

恐怖や不安はなく、ただ存在の幸福に満たされています。

世界を体験する

私たちを取り巻く世界

環境や人間関係、そして心理劇、目にする人間模様のドラマ

いろいろとそれらの景色を眺めながら

心地よいものもあり、そうでないものもあり。

 

でもそれらが心地よかろうと そうでなかろうと

景色は景色 なんですね。

電車の車窓から見える 飛び去る景色と同じ

 

その景色の中に見るものはなんでしょう?

この世界の汚れ?

もしくは 雑多なものの中に在る美しいもの

あるいは、雑多なものを含めた世界全体の美しさ。

 

いろんなことが起こり、一喜一憂したとしても

世界はただ世界としてあり続けます。

 

そして 私はその世界の一部。

私 という現象を体験している一滴の魂です。

 

最近はそこに積極的に絡みに行くよりも

ただ眺めている方が好きで

これは年齢のせいでもあるかと思います。

若い頃ほど活動のエネルギーが高くないので

ただ 見て 楽しんでいるのです。

 

若い人は エネルギーが放出していますので、それを使わねばなりません。

 

年配の者と 中年期の者と、青年期の者と、思春期の若者、子供、赤ん坊

それぞれの在りようがありますので、自分を基準に他人を見ると違和感や摩擦が生じます。

 

同じ年代にしても それぞれのエネルギー量は違いますので、

自分を基準にして他者を測ると 何かと摩擦が生じます。

 

私は この世界の一部で、この世界の圧倒的な自分の身体以外の部分を

受け止められるほど 自分と世界が一体になって 

それら全部を愛せるとしたら 

私の内側には世界と同等な量の愛が満たされる

 

そんなことを実感しながら 今日も世界を眺めています。

愛に満たされて。

セム

普遍のもの

自分が生きた証を残したい  と 言う発言をお聞きすることがあります。

それは?

人々の記憶に残る ということ?

何か 自分が生きた功績を残したい?

人に認められたい?

何を指しているのかな? と思います。

皆さんは何だと思いますか?

そう思っている方は どんなことでしょうか。

 

何のためにそれをするのでしょうか?

そこに何があると思いますか?

 

もし、あなたが 多くの人々のためになることをしたならば、

何かを残す なんて意図しなくても 人々は自然とその人の話を語り継ぐでしょう。

この人がいてくれてありがたかった 感謝だね。

人々はそんな思いを抱くでしょう。

 

でも、何か功績を残すことと 幸せであることは 別物だと思いませんか?

 

もしあなたがしたいことをして 結果的に『功績』 と呼ばれるようなものを残したなら

その活動は幸せなのかもしれません。いえ、きっと幸せ でしょう

でも功績を目的にしてする努力には数々の犠牲を捧げるかもしれません。

自分の時間と労力と幸せを犠牲に 功績を手にします。

これは幸せなのかどうか 何とも言えません。

満足をすればそれでいいと思いますが。

目的が達せられなかった時は満足しない?

で、その残した功績はどのくらい語り継がれるのでしょう?

 

1年?5年?10年?100年?1000年?2000年?

10000年語り継がれているものは何もありません。

宇宙時間のほんの一瞬の話です。

 

いずれは無に帰しますね。

それでも残したいものがある としたら それは何でしょうか?

 

 

ただ、

あなたの愛は 消えることがありません。

真我の意識である愛は

肉体を失っても消えることがないからです。

 

あなたは あなたの中にある愛を大切に育ててください。

それは永遠のエネルギーです。

生命力 

それはこの宇宙に存在する愛でできています。

チェリーブロッサム

 

存在 その2

前回、稲盛和夫氏の記事、どう感じられましたか?

 

私たちの本質は 存在 の意識です。

それは、神 と呼ばれたり、高次元の存在 と呼ばれたり、

ハイヤーセルフ と呼ばれたり、大いなる源 と呼ばれたりもしています。

 

私たちの意識の故郷で一つにつながっているものです。

私たちはそこから 1滴のエッセンスとして 一塊の魂として この体に降りてきた意識です。

 

最初、生れ落ちてすぐは意識そのものでしたが

身体の成長と共に身体の意識、自我が発動し始めます。

そして自我と共にカルマの経験をします。

感情を味わい、いつの間にか自我の感情と同化した自分と

自分というストーリーに飲み込まれていきます。

 

このストーリを幻想と読んでいます。

別の言い方では  記憶

 

たまに 自我と真我の隙間が大きい人がいます。

刷り込まれる思い込みやルールに染まりきれない若者

また 自分の感情と意識に隙間というか 若干の違和感などを感じる方もありますね。

実はこれ、意識的にみるとかなり自覚できます。

でも、社会の中では それは余計な事 と片づけられがちです。

 

この自分自身の中の状態、意識の観察 は内観を極めることによって明らかにされてきましたが、
ELM瞑想は内側の雑音を取り除くことで内側を明るくしてゆくのです。

つまり、自発的に悟りが見え始めるのです。

雑音、カルマのエネルギー 社会通念による思い込み が真我を覆っていますが、それを取れば

真我の意識と輝きしか残りません。

 

悟りの意識には 不幸は介入できません。

なぜなら、不幸はただのストーリーにすぎないからです。

悟りにあるのは今この瞬間の汚れのない純粋な意識です。

 

あなたも見てませんか?  空の世界。 純粋な意識で。

現象界は実に美しいものであふれています。

それを汚す必要はありません。

青い星地球

 

DNA

DNAは遺伝子情報が載ったマイクロチップです

先祖のカルマもそれに載っています

え? なんだって!カルマが!!DNAに!?

と、 驚かないでください。

そう身体のカルマとは 体質や病気のことです。

性格傾向にも要因が含まれます。なぜなら悩む内容によってどこの臓器に影響を与えるかが変わって来るからです。

嫌だと口に出せずに我慢したり、嫌だ思うことが多い人は胃腸の調子が悪くなります。外部の物を内側に入れるのがイヤ ということが体にも現れて消化器官の不具合となって出ます。

自己否定が強い人は頭が痛くなります。こんな自分は嫌だ と自分自身に責められる内部の葛藤が症状になります。

人の機嫌を気にする人は膵臓に症状が起きやすく、

何か義務を背負いこんでいる人は腰が痛くなったり背中が痛く鳴ったりします。

また強く怒りを抱えている人は心臓に負担がかかります。

身体にせよ心にせよ 発症するまでの負荷がかからなければ発現しません。
カルマは溜まりに溜まって溢れるように外に出て表現されます。

 

だけど、内側のカルマは悪さをするだけのものではありません。

カルマにはかるまの役割があります。

それは人生の学びです。

何か偏った執着や欲望、また、無意識の意識をあぶり出し、

私たちに歪みがどこにあるか 気付かせてくれます。

更に、私たちが 苦しい体験をすることで より深く人間の人生を理解するようになり、周囲の優しさや思いやり、また表面とは違う人の本心などを見る機会があります。

そう、愛とは何か? ということをしっかり学ばせてくれるのがカルマの体験なのです。

何も考えずに自分がしたことが人を傷つけたり、

また逆に人から傷つけられた時、

そこには本当は悪人はいなかった という真実を見つけます。

自分に都合のいい事は他人にとっても都合が良いとは限らないし、

人が困った時、助けてくれる人もあれば逃げていく人もあり、

また、自分はそういう時どうするのか? など

表面的には見えない人間の本性を明らかにします。

 

大切なのは誰が私にとって親切か ではありません。

私は人に対して どのような関わりを取るのか? ということです。

 

あなたが 心から愛の人であれば、

あなたのエネルギーは他人もあなた自身も 傷つけることはありません。

 

でも、あなたの中にカルマのエネルギーがあって

その負の感情が発動する時、もしかしたらあなたは誰かを傷つけるかもしれません。

そんなに人間たちが抱えている課題を 全て愛で包むとき

あなたの中からカルマは消えます。

 

愛は傷を癒し、カルマを溶かします。

私たちが体を持っている以上は最後は「死」というカルマがありますが、

あなたが愛であればそれも悲しみにはなりません。

あなたの愛は あなた自身とあなたの周囲の人々を限りなく永遠に癒します。

 

愛を発動されるには ある程度のカルマのお掃除が必要です。

カルマが多すぎると 怒りや苦しみの方が愛の量より多く出てきて

愛どころではなくなります。

カルマはまず出してお掃除してしまいましょう。

身体の症状は真の原因を見つけると消失していきます。

 

カルマが少なく鳴れば少なくなるほどに あなたの愛は目覚めて大きく輝き始めます。

また、愛に目覚めるほどに身体は自然の健康を取り戻し始めます。

瞑想にそのお手伝いをさせてください。

瞑想は あなたの真の幸福と健康へとつなげていきます。

本当の幸せには 何も要りません

あなたがいるだけで可能な幸福です。

存在の幸福

あなたも体験可能です。

生まれて来てくれてありがとうshine

蓮花

無我の視点

今日は瞑想体験会の日でした。

瞑想が初めてという方も瞑想して頂いて、

「気持ちよかった、スッキリしました」

という感想を頂きました。

 

瞑想で分かるようになるものについてちょっとお話させてください。

 

私達人間は 思考を持ち歩く生き物です。

記憶は必ずしも思考とは限りませんが、

それを思い出しながら繰り返し反芻していくうちに

いろんなイメージを付け加えて 独自のストーリーが出来上がっていきます。

これが人生ドラマです。

 

このドラマには「私」という主人公がいて、

その私が いろんな脇役の皆さんに 愛されたり愛されなかったり、

親切にされたりされなかったり、

意地悪されたりされなかったり。

 

いろんなものを手に入れたり手に入らなかったり

いろんなものを所有したり 失ったり

 

それにいろんな感情の浮き沈みを交えて ドラマは更に壮大になっていきます。

 

このドラマ、  本当はありません。

 

実在しているのは ただ 「今」 というこの瞬間だけです。

 

そこには意味は存在せず、

「今この瞬間」の状態だけが 在ります。

無数の原子・分子が構成する 世界 という状態です。 

 

私達の意識は それを観察する神の一部(分身)です。

 

この世界観を体験するのが 悟り体験です。

 

「私」と思い込んでいたもの

「人生」という幻想から覚める瞬間です。

 

その瞬間から その意識は 神と繋がるようになります。

 

恐れていた「神」なるものは 私たちの母体

故郷に他なりません。

それは 内側の奥深くで いつも繋がっています。

 

あなたの意識が 肉体から解き放たれる瞬間、

と言っても死んだときのことじゃありません。

身体の中に閉じ込められていた意識が 身体を越えて広い世界に拡大する時、

空(くう)という母体と同化することができます。

 

難しそうですが、じつはそうでもなく

人はしばしばこの空と同化する瞬間を日常でも体験しています。

 

そのことに気付くことが 悟り体験でもあります。

 

これはELM瞑想を実践していると ほぼ 日常の体験となっていきます。

瞑想を始めるとじきに空の状態に入り込むからです。

 

慣れ親しむと、顕在意識化でもこの空の感覚を使い分けられうようになります。

そう、ただ、思考を止めて、意識を拡大するだけなのですから。

 

なんだ、こんなに身近にあったのか

笑うくらい自然なものだと気付きます。

 

ただ、まだどれが「それ」なのかを気付いておらず、

止めることができない思考がなだれ込んできて

なかなか認識しながら無我を体験できないだけなのです。

 

内側に雑音(雑念)が多すぎる間は、意識的に無我をつくるのが難しいだけです。

ELM瞑想は 波動の力で 意識を無我のエリアに引き込みます。

 

無我は 無意識ではありません。

「私」という幻想から解き放たれた 観察者になる 

意識のモードがシンプルになるだけのことです。
 

なんでもないこの意識の切り替えができるようになるまでは

なかなかそれがどんな感じなのかわかりませんが、

 

自転車に乗れるようになるのと同じような感じで、

身体で体感してチャンネルを合わせます。

ただ、我 を消すだけのことです。

我が必死で主張し続けるうちは難しいかもしれません。

瞑想をしていくうちに 我は主張しなくても安全だと体感して

お喋りをやめるようになっていきます。

我が静かになった時、真我がはっきりと現れます。

 

なんだ これか という感じです。

 

我は 自分のテリトリーを護りたがりますので

黙ることを恐れているうちは、ああだこうだと抵抗しようとします。

実際は何も恐れる要素はありません。

お喋りを止めるだけのことですから。

むしろ、周りがよく見えるようになってきます。

悩むこと

こんにちは。

年末はなぜ気ぜわしいのか?

相変わらずの師走な12月です(笑)

 

昨日 電話相談の事例を拝聴しておりまして思ったこと。

悩みというものは 本当に沢山あるようですねぇ。

 

私は、普段あまり昔のことは考えないのですが、

いろんな方のお悩みを聞くと、

そう言えば自分も昔は色々悩んでいたなぁ と思い起こされます。

 

悩みは 思い通りの理想ではないということに抵抗する気持ち です

 

若い頃は理想を求めていました。

それがカッコイイ生き方だと思っていたのかもしれません。

 

今はそもそも、理想や思い通りにしよう という頭がありません。

そう、あるがままを受け止めています。

それでは足らないと 不満を持たない ということです。

つまり欲張らない。

 

好みとか苦手なもの というのはあります。

それは目の前にあるなら このんで選んだり、近づかなかったりします。

危険にたいしても警戒します。でも、恐れてはいません。

 

目の前にないことをどれだけ恐れてもどうしようもないからです。

予防ということはできますでしょうが、

出来事は起きる時は起きるし、起きない時は起きないですし

起きてはならないこと と決めたところで、起きるものは起きてしまうのですから

それは仕方ありません。

むしろ 原発など、事故が起きる要因を持ちながら事故は起きてはならない などと言ってる方が奇妙に見えます。

 

要因があれば それは種です。

 

ですから、人間の煩悩とか 欲に関しても

あるのが普通なので あってはならない なんてことは考えず、

あるものだから どう付き合おうか という風に考えます。

 

誤解とか 思い込みとか 過失とか 忘却とか 不義理とか

あるものだから それが起きても 平和に仲良くするにはどうしたらいいか

を工夫します。

 

人は 一人一人は不完全なものですが

皆で助け合うことによって 満たされる社会が実現します。

 

社会に蹴落とされないよう気を付ける ということは

零れ落ちる人を助けようと思っていない ということですし

 

人から批判されないよう気を付ける ということは

あなたが人を批判するという大前提がそこにあります。

 

私がしないことは この世界から一つその要素が減る ということであり、

する人を責める ということは

あなたもまた何かで責められている ということで

 

あなたがしていることが この社会を作っている と言っても過言ではないのです。

 

実際、自分が見ている世界は あなたの波動が届いていますので

あなたの生き方そのものが反映されてしまうのです。

 

あなたが 愛に満ちた人を生きれば

世界もまた 愛を反映してきます

 

あなた自身が世界や人を愛せているか

あなた自身が自分を愛せているか が あなたの世界の重要なポイントです。

 

これは、実感するまでは 絵空事のように聞こえますが、

実際実践してみると 万有引力と同じくらいの影響力です。

 

あなたは世界にどんな波動を投げかけているでしょうか?

あなたの思い 一つ一つが あなたが見る世界を創り出しています。

 

愛し方がわからない という方は

ぜひアトリエ霽月にお越しください。

思い

生きていると 日々 いろんな思いに巡り会います。

楽しい事や嬉しい事、辛い事や苦しい事

元気、勇気、やる気 弱気

いろんなことに喜んだり凹んだり、

そして絶望したり、夢から覚めたり、、

 

そう、夢を見ている時は 夢でない今を忘れています

人は 何もない ちっぽけな今を忘れるために

夢を見るのかもしれません。

 

どうしてそんな夢見をしているのでしょうか

そう、その夢って あなたの現実のことです

現れる景色と思い

 

理想を追って、理想でない今を悲観したり

あれやこれや思いを巡らせて、落としどころを探す。

 

どう思ったとしても あるのはただ 今の真実のみ

泣いても笑っても それ だけ

 

と、いうことに気付いて 「あれ?」

「なんで思いを絡めて 悶絶してたのかしら?」

「思い通りを手放せば、実は なんてことはない『それ』だけ?」

 

「あ? (ΦωΦ ) 三 ( ΦωΦ) ・・・

 

 独り相撲?か・・・   これだけ?  か・・・

 

 ただの これだけ・・・

 

 あ、 あ?  あーあ、アホくさ」 (◎_◎;)ゝ

 

っていう悟りの瞬間 

 

そうです、これまで どれだけ必死になって幻想を築き上げようとしてきたことでしょうか

 

そんな幻想も 針の孔を蟻が通るだけで

いえ、針が風船の表面をちょっと突っつくだけで

一瞬にして崩壊してしまう

 

世界のバランスなんて 砂浜の 砂の城のようなもの

砂の城だけを見て それを取り囲む海も空も見ていなかった

ましてや暴風来るとか 晴天の霹靂~

 

そんな感じの意外感。

私の世界 なんてちっぽけだったんだろう、

しかも 自分の世界観の中だけでしか生きてなかったし

 

言葉で聞くと他人ごとですが

これに直面した時

一瞬にして自分の世界観が真っ白になる

エンドロールすら出てこないドラマの終了

 

でも まだそのドラマの中で生きている人間たち。

 

お釈迦様は そんなドラマは 本当は何もない空(くう)でしかないんですよ

と説いています。

 

そんな風にはなかなか思えないけど、

崩壊を経験した人にはよくわかる

 

空(くう)なんです。

 

あなたの意識は

空に拡がる無限の意識

あなたの意識を遮るものもないのです。

 

私とあの人を遮るものも

肉体とこの世界を遮るものも

今生と来世を遮るものも

何も無いのです。

 

あなた自身がこの世界そのものを生きています

しかも 永遠に ですから。

だから、思いっきり泣いたら

ありのままの今を ただ眺めて

ただ 命を味わってください。

 

あなたがあなたの命を受け止めた時、

本当の魂 愛 が発動します。

そこには 永遠の愛おしさしかありません。