2024年08月

真の平和

暑い日が続きますね。

今週はこのあと台風が九州方面に向かっているようで、大事にならないことを願います。

今年、来年は 色々と試練が多いという話題を耳にします。地震や天変地異や戦争などなど、

こういった話題は、ネガティブに人心の不安を煽りますが、私はそういう意味ではあまりネガティブには捉えません。

地震は地球上のこのエリアでは定期的に起きるものですし、天変地異も喧嘩も昔からいろんなところで起きるものなので、

それほど特別ではないように思います。

戦争は 人間が人間を殺したり苦しめたりする という、本当に愚かしい行為だな と思います。

人類の仲間割れ、同種の生き物同士がテリトリー争いをして、自然にその数を調整しているのでしょうか。

まだまだ人間の文明や文化は低いのかもしれません。

前時代の意識の大人が、愚かさを演じ反面教師になることで 子孫たちは愚かさを学ぶのでしょうか。

ここで、子孫、次世代の若者たちは 憎しみ合ったり、否定する事では平和は生まれない ということを少しずつ学んでいきます。

それが真の智恵や賢さです。

平和を望むなら、喧嘩や嫌悪をしない生き方が必要になってきます。

そう、だから人の悪口を言っている場合ではないのです。

愚かな行為を見ると、怒りは湧いてきますが、その怒りのままをぶつけることでは平和は生まれない

世界が平和であるためには、個々の心が平和である必要があるのです。

よく、権利や平和を勝ち取る という表現がありますが、

勝ち取る や 奪い取る が 憎しみや罰することに続いている限りは真の平和は手に入りません。

どんなに自分が気に入らないシチュエーションでも、相手には相手の価値観や都合がある、

まずはそのことも理解しないと本当の平和には繋げられないでしょう。

なので、本当の平和を生み出す人は、過程で戦わざるを得なくなったとしても、戦いは最小限に終わらせることを望むと思います。

そして、戦わない解決法を探すでしょう。

戦争と喧嘩は同じです。

双方の利害が反発して摩擦が起き、事が大きくなると武器を使った戦い(戦争)になるのですが、

真に智慧のある者は 戦わずにに解決する方法を探すでしょう。

他者を尊重するという生き方は、大変公平な意識だと思います。

自分だけが得をするのではなく、全体のバランスを取ることを目指します。

それが平和で 愛 なのです。

豊かさとは 愛 です 

 

バランス感覚

頑張りたい人、もうこれ以上頑張りたくない人

単調な繰り返しが苦手な人、また逆に安心できる人、

静けさを求める人、刺激が欲しい人、

人々の好みは本当に千差万別です。

何が良い 何が悪い ということは一つには決められません。

また、同じ人でも動きたい時と休みたい時があるので

これは緩急のバランスの問題です。

多すぎれば減らし、足らなければ足す。すごくシンプルな話です。

その時の状態や状況によって ベストは変わってきます。

自分のベストは何なんだろう? その答えも一つではありません。

その時々のベストがあります。

その答えが分かるのは本人の感覚のみです。

 

もう一つの見方があります。ちょっと考察してみます。

怠けている という状態、これは、できるのにしない という時、

何かが足らないですよね。やりたいことなら飛び起きてやります。

でも飛び起きてしようと思えない時です。

その人にとっては「やる」のがベストではない時

でも、やり始めないとずっと膠着状態。

動かずに体力が落ちていくのなら、後退しているのも同じ。

ただ単に、それまでより体力が落ちただけで機動力が起きなくなったりします。

キツいキツいとずっと動かないでいると本当の動けなくなったりします。

病院で手術のあと、まだ痛いのに自分でトイレに行くように言われたりします。

これは筋力を落とさないためにします。

肉体は物質ですので筋肉は使わないと減ります。

頭も使わないと回りが遅くなります。使ってこそのパフォーマンスアップです。

 

身体は使って動くようにしたほうがいい。

でも、過度に使うと疲弊します。

短命なアスリートがおられるのは長持ちしないほど過酷に使うからです。

メンテナンスと休養と適度な稼働

肉体を維持するバランスですね。

そういうものを管理するのがマインド。

過度な要求をするのが自我。

それと、他者の生き方は本人に任せましょう。

あなたはあなたの身体をコントロールする権利があります。

他者もまた同じです、

好きな滝の一つ、熊本の鍋ケ滝

あるがままの美しさを保存するにも努力やケメンテナンスは必要でしょうね。

美しい自然を守って下さる地元の皆様に感謝です。

循環

色々やることは多いけれど、あえて のんびりモードで過ごす今日この頃です。

日本人は頑張りすぎる傾向にあるので 

がんばらなくてもなんとかなる を実践してみたい(笑) (ただの夏バテw)倒れないようにねw

これは頑張らないと取り落とすものがあるとしたら、それはもう落としていい ということかもしれません。

自分のペースで手にできるもので生きる ある意味断捨離的な事なんでしょうね。

命があって生きている というのを基準にした時、細かい条件はさほど問題ではないということに気付きます。

与えられた命と時間を生きる その中では体勢を変えることも必要でしょうね

時間と共に変化します。ゼロから創造⇒成長⇒維持⇒繁栄⇒停滞⇒澱む⇒崩壊⇒ゼロ というサイクル

単純化すると 創造 維持 破壊 が繰り返されてこの世界はリフレッシュしていくのです。

人生は波乗りのようなものです。

いろんな時代をバランスを取りながら乗り切っていきます。

それが人生の醍醐味なのかもしれませんね。

命はいろんな体験をしながら 次世代へと繋がって行きます。

より浄化された次世代へとつなぐ橋渡しになればいいなぁ と思う今日この頃です。

日常の喧騒

今日はスピリチュアルな発信をお休みして すごく日常的な話題でいきます。

スピリチュアル(精神世界)に意識を向けると 穏やかに静かな時が流れますが、現実の物質界ではいろんなことが起きます。

昨日、とても久々に怒りの解放があったり、気分が落ちるようなことがあったので 正直に書いてみたいと思います。

一昨年秋に 認知症が始まった父を福岡に呼び寄せて介護しているのですが、

介護というのは 本当に大変なものですね。

今年に入ってショートステイも利用するようになったのですが、8月は月のほとんどを施設で過ごせることになったので
やっと時間が出来てブログを再開できました。

ショートステイなので時々帰宅するので16日に戻り、各科受診や検査、今後の打ち合わせなどで色々忙しかったです。

円滑に介護体制を整えるためには必要な事ですので動くのですが、

当人の父、認知症が進んでいてなかなか必要な事ができない。

検査用の採尿をするために前夜から準備したにもかかわらず、採尿コップを避けて普通に排せつして受診予定がダメになる。。。受信予約取り直しだけど
今日しか行ける日は無いのよね、無理くり夕方に受診させてもらう了承を取る。

前もっての準備やら当日見張ることやら、待機時間やら、 たった一つの事をさせるのにどれだけの手間と時間のロスが出るか。

必要な時に必要なことができず、、しかしながら 本人は何食わぬ顔で「することがあったら言ってね」と言うのを聞くと、
もう膝から崩れ落ちそうになってしまいます。 orz

労働よりもメンタルにこたえるなぁ。。。 それでも、責めたところでどうなるわけでもなく 気にしないようにしよう と気を取り直すのですが、

翌日(今朝のこと)ずっと治っていた父の尿漏れが再開して、こちらの気持ちがなんだか折れてしまった。
 またあの状況(毎日ダダ漏れ)が来る?という恐怖がよぎる。

再度、ショートステイに送り出した後、洗濯機を回しながら ともすると涙が出てくる。

いやいや、すぐにショートステイに預かってもらって、私は助かっているじゃないの。
何で泣いてんのよ。 じっと待ってただけで大した労働したわけでもないのに。

父が食事を食べたり食べなかったりするのをじーっと待って、終われば片付けて 勝手に怒って で、1日中振り回されたのは昨日だけ。

10分に1度「で、今日はどこ行くの?」と何度も繰り返す同じ質問に 淡々と返事し、
「暇だから仕事したいなぁ~」と言ってくるのをなんとかなだめ、出来もしないことを出来ると自慢げに語るのを聞き流し、
こういう時はどんな返事をしたらいいんだろう?とか思いながら
何も感じないようにしながら時間が過ぎるとなんだか妙な精神状態になってくる。

こういう時は笑いに変えるんだ! という気力も湧かない。心が無言だ。無表情だ。感じると泣くからかな?

今日は たぶん疲れているんでしょうね。あまり欲張るのはやめて 時間はあるけど 何もしない をやってみようと思います。

瞑想、究極の何もしない。。。 つくづく 瞑想してて良かったと思います。

そう、何も起きてはいない。今は静か。

回復したらまた書きますね。

バランス 宇宙の法則

宇宙の法則でとても重要な基本的な法則のお話です。

これは物理法則的なもので その法則は時と場合によって変わるようなものではありません。

物理法則は、物質が恒常的に持つ性質で常に働きます。

物が落ちる速度 とか

地球の重力の元では水のような液体の水面は水平に保たれようとします。水は高い所から低い所に流れ、水面の高さが平均的になるところで安定ます。

空気も同一エリアでは密度が均一になろうと拡散します。

水や空気は温度で密度が変わるので温度で重さが変わる。重い空気は下へ沈み、軽い空気は上昇するので全体的には対流が生じます。

太陽があって、放射熱があって、地球に重力があって、

諸々の自然条件でこれらの現象は自然に起きてしまいます。

部屋の空調を調節する時もこの空気の性質は考慮しますよね。

空気や水だけでなく エネルギーや波動なども このような対流があります。

上昇する波動、下降する波動、それによって対流が生じます。

自分が上昇する波動を発すればそこに上昇気流が生じ、

下降する波動を発すれば下降気流が生じます。

人間の発する波動が扇風機みたいに方向性をもっているようなものでしょうか。

人は波動を下に向けたり上に向けたりしています。

これが ポジティブな引き寄せ、ネガティブな引き寄せの源です。 あなた自身の意識です。

波動は高い低いで表現しますが、地球の重力とはまた別物ですので地球上の上下とは関係がありません。

隣にいた人に出した波動が 別方向から降りかかって来る 他者にしたことしていることが後で別の方向から返って来る

これらは波動の対流のようなもので

仏教用語で因果応報って言います。

この対流はサイクルが小さく短いスパンで起きるものと大きな対流で長い時間の後起きるものがありますので戻って来る時間はまちまちです。

あなたの扇風機?が 上昇気流を作る人か下降の波動を作る人かでどちらを体感するかが変わりますね。

つまり、あなた自身が暖める人なのか冷やす人なのか次第であなたを包む空気(波動)の対流が起きています。

愛・喜び=暖めること(癒しで満たす)豊かさ

欠乏・負の感情(カルマ)= エネルギー(愛)を奪う、破壊 

 

あなた自身が愛の存在であることを自覚して愛になればあなたは生命エネルギーである愛を放射し周囲を温めます。

ですが あなたが 愛の欠乏(怖れ・不安・不信感・怒り)といった幻想を持っていると 愛を奪う存在になります。

もらう側で完全に満たされることはありません。
(幻想である「愛の欠乏」は欠乏の幻 それは過去の記憶の残像 つまり実体のない影であり本当は存在しないただのイメージだからです)

愛は生命エネルギーなので日々生産され、あなたは生命活動と共に愛を放射することができます。生きることを喜べればいい。
身体的エネルギーは限界があるので、行動に限界はありますが、愛そのものは存在の振動なので消えることはありません。発振するあなた次第です。

愛であることを選択するなら あなたは愛でいることができ、それによって上昇対流の中心にいることができます。

あなたが最大の愛を感じるポジションです。

分かりやすく言うと、あなたが愛する時はあなたが愛される時よりも大きな愛を感じることができる。

実際に、見返りの無い愛を差し出した時、次に大きな愛の流れを体験します。

そこにエゴが混ざらなければ、純粋であればあるほど 純粋な愛の形が現実化してくるのです。

これは、私たちが愛であることを推奨する理由です。

 

そうは言っても、自分の中のエゴは消せない と言われる方も多くいらっしゃいましたが、

この原理を理解すればするほど 愛以外に選択したくなくなります。

自分の中に在るエゴですら愛する対象となります。

生物としての肉体を持つ以上、そのしくみとしてエゴと同居することになりますが、そのことを否定しないでいいのです。

エゴは旅の道連れです。

解放が起きた時や 自我がエゴを主張する時、「そうかそうか」と否定せずに聞いてやります。

身体がどうしても拒否するなら無理な事はさせません。

否定しなければ解放は終わって行きます

本当に幸福な事は何か を一緒に見ます。(人間の意識が複雑に屈折しているとわかりにくいこともある)

愛は必ず行動が伴うものではありません。 ただ否定せず あるがままでそっとしておくだけでも充分愛なのです。

戦う必要はない。 (護身は戦いではないと思いますが、怖れも攻撃性を持ちます)

行動は問題ではなく、何を感じているかが重要です。波動の問題なのです。

 

自分のまわりにも他者の波動の対流があるので巻き込まれることもあるかもしれません。

その時は、自分の波動のポジションをより整えてください。

台風のような強烈な流れが起きている時は避難することも必要です。

あなたの波動の状態を整え、周囲の波動も慎重に見極めます。

怖れからは真実は見えません。カルマが別のストーリーのフィルターをかけてしまいます

あなたの心が常にいまここにあるなら、

あなたはあなたを取りまく波動に気が付くことにできるでしょう。

 

あなたとあなたの周りの人々の波動の状態を感じてみる練習をしてみてくださいね。
その感覚は使えば使うほど、よくわかるようになります。
瞑想はあなたの感覚を研ぎ澄ますツールです。

私達生き物には本来そういう能力が備わっています。

これも自然の神秘なのです。

愛の対流を認識できる人間はすごい高等な生き物だと思います。
更に進化しそうですね。(本当は誰でもできます)

 

魂の美しさや輝きを表現する方法があるとしたら・・・
こんなイメージ? 
人型とは限らないな・・ と思いつつも、、、(笑)
上昇気流⤴✨

 

瞑想伝授 随時受付中です。

個人的にもっと話を聞きたいという方はカウンセリングでお申込みください。

現実的なお悩みのご相談もお聞きいたします。
すべてが法則通り すべてが学びに繋がります。

浄化 瞑想の効果

過去のトラウマやフラッシュバックのある人でも それが消せる というのは
実体験で実感しております。現在はとらうまのtの音すら 片鱗も残ってはいないのです。

私の場合はまず スピリチュアルの宇宙の法則を知って生きる方向性が変わり

瞑想を始めてから フラッシュバックが消えました。
突然見舞われる言いようのない不安が 起きなくなっていったのです。

その変化を感じた最初は1か月目くらいでしょうか あれ?ちょっと気持ちが楽かもと思い始め、それから徐々に不安感は出なくなって行きました。

これがなくなったら困る というような依存はしばらく手放せずにいましたが、依存度が徐々に薄れます

瞑想でストレスが減りますので持ち堪える余裕ができるのです。

すぐには消えなくても徐々にゆるみやがて手放す流れになるので 最終的には手放すところまでいきます。

まだあるけどまあいいや。今はまだ必要なのかもね くらいに思う。

忘れた頃になくなるので気にしないのが一番効果が上がります。

最終的に決別する瞬間はちょっと怖れが出ますが、流れは浄化し続けますのでどうしても自立の方向に立たされます。それを飛び越えるのは自分自身にしかできない。

思い切って飛び越えてみると、

着地したそこに立ってみて初めて 自分が大丈夫だという事を自覚します。この時、励まし合える学びの仲間がいると尚心強い。

 

瞑想習慣がつくと浄化は進みます。自然にゆるやかに解放が始まります。

一人で通るには怖気づいてしまいそうですが、実際には全然大丈夫。

経験者が近くにいると本当に心強いものです。

やったことがないことは誰しも怖いと思うのですが、

でも、それはできないのではなく、できないと思い込んでいるだけなのです。

大事だと執着してしがみついていたものがなくなると、一瞬頭は真っ白

子供みたいに泣いたりなんだりの解放が起きれば更にラッキー、

解放が落ち着く頃、世界は静寂なことに気付きます。

そして、実際は何もおきておらず、騒ぎは自分の中だけのことだ ということに気付きます

それどころか、私を見守っている温かい目の存在にも気付いたりします。

これを失ったら と もがいて、特定のものしか見ていなかったのは 私だった。

それがあるかないかだけにこだわり、それ以外のものを完全に無視してないもののように扱っていたのは私だった。

周りに在る愛は 視野を狭め 拒絶する私をただ見守っていたにすぎません。

ただ、そっと見守って好きにさせてくれていた。

ネガティブな幻想が砕け散った後に見えたもの でした。

恐れていた幻想、理想を失う事が 無理なことだったということに今まで気づかずにいたのでした。

私は理想だけを見て、本当のことに蓋をしていたのかも。

真実をみることを拒否していたのかも。 

執着していたものが無くとも 私は普通に息をして 生きている。これは何だろう?

ふと、 なぜアレがないと生きていけないと思っていたんだろう?と不思議に思えました。

あれほど、不確かなものにどうしてしがみつこうとしたのか? 私はそこに何を見ようとしたのか?

 

いままで恐れていた すごく深い谷底!と思っていたのが、ただの段差程度の全然大したことないものだった とか、そんな感じです。

幻想が落ちる瞬間て、直前は絶叫マシンみたいなんですが、終わると、安全にスタート地点にもどってカートを降りるような普通さです。

なので、みんなそこを悟ると笑っちゃうんでしょうね。

私の場合、気になることは試してみないと気が済まないような気質もあって、

このままに留まるくらいならダメもとで死んでもいいや~!なんて極端なことを思ってしまうところもあって

実践してみましたところ、ほんとに笑っちゃう結果でした。

執着は とっとと外した方がいい!

恐怖は幻想!

問題は起きてみないと対処法はわからない。

未来は予想外の事が起きるので完全に事前準備するのは無理。

むしろ 流れに乗って 流れを楽しんで

選択の時に好きな方を選べば良い

究極の選択(どちらも試練)の時は、ハートの赴くままに進め。

基準はハッピーに生きられる方を選ぶ。

今を生きる! いまここを生きる

 

瞑想で習った数々の言葉は 面白い流れをもたらし、

予想以上のハッピーな生き方を与えてくれます。

100%の理想 ではありません。 そもそも理想にも上がらなかったもっと面白い状況が来ます。

私たちが世界を信頼して流れに任せる という事が出来れば

流れは私たちの追い風となり 必要なものを循環させます。

あなたはあるがままのあなた ハートの望むように生きてください。

理屈や形にとらわれることはありません。

なにせこの世界は壮大です。何を与えてくれるか 楽しみです。

あなたが生き生きと生きれば生きるほど 世界はそれにふさわしいものをもたらします。

今この瞬間を楽しんでみましょう。

緩むも良し、動くも良し🌸

終戦記念日 心の平和

今日8月15日は あの痛ましい戦争が終わった日でした。

正しいと信じてお国のために命を捧げて散って行った多くの国民

集団幻想としての正義は 時に大きな犠牲を作り出します。

それが正義だと信じさせられた時代。犠牲と痛みの多い試練でした。

今の日本は戦争を放棄して国内では戦闘のない生活をしていますが、

国民はまた別の正義や価値観に縛られてもいます。

この自由な時代の日本で自由に生きていない人々がいる。

資本主義の正義に取り込まれて それに依存しないと生きていけないと多くの人が信じて来た時代

それが戦後の日本でした。

でも、それで頑張って発展して豊かになった日本は、皆が豊かさを享受して幸福に生活しているかというと、割とそうでもない方が多い。

ワーキングスタイル 働き方について ちょっと考察してみましょう。

私のような 組織に所属せずに仕事をしている人間は、時間もスケジュールもノルマも自分次第に融通できますが、

会社組織に入りますと、会社のマネーゲームに追い立てられることになる。

社員の生活や仕事の待遇を守ろうという会社なら良いのですが、利益が第一優先の会社は社員は使い捨ての道具のように見ていたりします

社員さんたちは、この会社を辞めると生活の手立てがない と思い込んでいると辞められず、病むほど仕事をしてしまったりします。

ここで自分を守れるのは自分しかいません。雇用制度があるとはいえ会社が人生を守ってくれるとは限らない。

会社に依存して会社の言いなりになることは正しい事ではなくなりました。(昭和はそれが正解とされていましたが)

経験を積んで仕事を覚えないと仕事がこなせない ということはあるでしょう。それまでは少なからず努力が必要

でも、覚える時間も個人差がありますし、個々で得手不得手は違います。

比較的得意な事と仕事内容が一致していれば成績は伸びましょうし、そうでなければ頑張ってもなかなかです。

会社がそういうことを踏まえて適材適所に人材を配置するような会社ならよいのですが、そうではないところも多いようで。

これは働きにくいですよね。

優秀な会社は人事部もしっかりしているかもですが、そうでないところも多い

会社にとっては誰が歯車になってくれても機能さえすればよいので とにかく成果を要求されることになりますが、

そのゲームはあなたの人生とはあまり関係がなかったりします。会社の都合が個人よりも優先される所。

自分自身が自営業という道を選んで生きてみると、自営業の在り方にはすごく幅があって

それぞれが自分のやり易いようにワークスタイルを組めるメリットがあります。

自分が働いた分がダイレクトに利益に反映し、ただ「時間」ではなく創意工夫が重要になります。

勤め人は業務のことだけ考えればいい というメリットがあるけど、自由さが無い。会社によって待遇がかなり違う

自営業は自由だけど何もかも全部自分の責任でやらねばならず、従業員がいて手分けができる場合はいいけど、組織を作る事も自分で構築する手間が要る。
社会保障や雇用保障などは無い。リスクが大きそう?って見えちゃいますよね(笑) 

確かに。度胸が要るには違いない。もしくは無鉄砲さ?なんとかなる精神?

また 別方面の生き方、最近時々耳にする、自給自足生活。ポツンと一軒家 的な?

これは経験がない都会人にとってはとてもハードルが高そうに思えますが、やったことないから無理と思うのも残念、

もしやってみたいと思う場合は、キャンプなどの野外活動とか、家庭菜園など農業の基礎を体験しておく方がいいんじゃないか と 思いますね。

自給自足の生活は 食べ物を作ったり家を整えたりという労働がメインになると思いますが、そういった大地に触れる作業は 人間の生命力を活性化する作用があるようです。

本当に都会の生活に行き詰ったら 都会から離れた生活も視野に入れていいのかも。

ベテランの瞑想者さんたちのように 気難しくなく、いつも穏やかにいられる方なら どこに行っても生きていけそうですけどね。(笑)

人と摩擦を起こさない方法は 他者のやり方や在り方を否定しない 裁かない ということから始まります。

 

都会には都会の厳しさ、自然には自然の厳しさ。

何が良いというより、あなたが何を求めるか だ。

好きなものに関する苦労は喜びに繋がる。

人生何があるかわからないから面白い

いろんなタイプの人がいると思います。

私はちょっと個性的な方で、自分がやりたいと思ったことを我慢するのが苦手な子供でした。

大きくなってからもその傾向は強く、嫌なものは絶対嫌だし、やりたいことは騒ぎ立てるか隠れてでもやったりするような子でした。

でも、ちょっと小賢しいところもあり、大人にとがめられずにやりたいことをやるためにはどうしたらいいか?なんてこともよく考えてましたし、

嘘をつく時はその嘘が本当だと自分も思い込んだ方がバレにくい なんてとんでもないことを考えたりしていた記憶があります。

だけど、実際は嘘はいずれバレるし、嘘を誤魔化すための嘘をつかないといけなくなり

物凄く面倒くさいことになる という事が分かり、嘘をつくことはやめたのでした。

悪いこともやってみて初めてそれをしない方がいい理由がわかる という体験型学習 (笑)

しかし、そんなとんでもないことをやってて親を誤魔化せたのは、

うちの両親があまり子供に興味がなかったからかもしれません。

子供心にうちは放任主義なんだな と思っていました。親の監視がないので、ある意味好き放題 と言いたいところでしたが、

親の決め事だけは絶対 だったので、門限とか、あと、高校生の頃は軽音楽部に入るのを許されなかった(軽音に入ると不良になると思ってたみたい)とか

割と偏った親の価値観の縛りはありました。

でも、子供の様子に無頓着でしたので、中学生の頃、いじめにあって思いつめていたのに気づいてもらえず、担任の先生から報告があって知った時も

「もう解決したならいいです」というような反応でした。

当時、母はワンオペ育児で年の離れた幼い妹もいて大きくなった子のことまで気にしている余裕がなかったんでしょうね。

いじめ以降私が対人恐怖症になっていたのですが、何のケアもないまま時間が経ち、気が付くと15歳で摂食障害になってました。

そこから すごく偏った世界観で若い時代を過ごし、自分の病状を親に隠し、親も見て見ぬふりをして十年ほど経ち、

親に何か期待しても何も取り戻せないとわかったのが25歳。

親が子供の愛し方を知らず、自己承認を出来るようになるためには 自分で自分を育て直さないといけないのだ ということがわかったんですね、

それから、その方法を探すんです。 どう生きるべきか? 何が足らなくてこんなこと(摂食障害)になっているのか

どうしてパニックがやってくるのか? どうすれば普通に生きれるのか? どうして私は普通じゃないのか?

そう、普通じゃない と思ってた。

でも、何が普通なんだろう?

世間でうまくやっている人みたいにできていないことは確かだ。

この、まるで悪魔がついたかのような病気は、自分の意志でどうすることもできない。 私の人生は最悪に見えました。

摂食障害やその他の依存症の原因は、意識のベースに在る不安や恐怖からの逃避なんです。

その原因の方が漠然としすぎていて、恐ろしすぎて直視できないので逃げる。

もしかして、私は誰かも愛されないのではないか こんな私では。。。 という恐怖です。

条件付けされた愛で育てられると そういう風になるようです。

いい子で居れば大好き。おりこうさん よくできた子 などなど。

本当の子供の気持ちは親は興味がなかった。なにをするか 何を言うか だけしか見ていなかった。

それは、その親自身が そのように扱われた経験がない ということ。

愛情深く育てられたことがない人は愛し方がわからない。

それはけっして子供に愛情がない というわけではないんです。

子供は幸せに育てられるべきだし、守らなきゃいけないと真剣に思ってる。

でもそれがすごく形にとらわれたもので 良いであろう型にはめることが子育てだと勘違いされたんですね。

自分自身もその価値観で必死で型にハマろうと生きて来た ということ。

真面目であるがゆえに。

元凶はなんでしょうか?

無知である ということです。

これが仏教でいう 無明(むみょう)

法(この世界の法則)つまり真理を知らない ということ。

でも、真理ってなんだ? という問題も その答えを知る人がすごく少なかったのですから

責めるのも酷ですよね。

人類がありとあらゆる、残念な体験を通して

本当に幸福になれるためのヒントを探す 壮大な旅 ですよね。

この意識の進化が 本当の進化じゃないのか と 私は思うのですが、

そのために 極端にまずい例を体験してみて、真理への渇望を得て そして 見つかるんですよ。

 

今の情報化時代に 真理 宇宙の法則 は

瞬く間に求めていた人たちの元にひろがってゆくのです

苦しむ者は幸いです というのはキリスト教の言葉でしょうか

今 人生に行き詰っている人はターニングポイントです。

そして新たな価値観、いいえ、価値観にとらわれない世界観で生きて良いのです。

自分の求める生き方をしていい。誰かの意見に惑わされなくてもいいのです。

私達自身が 基準を 形のない「愛」に置けば、すべては癒されていきます。

一人一人形は違うけど あるがままで許し合える世界

それが天国の生き方なのです。だれも、非難せず、非難されず。

傷は癒すもの。手当するもの。

命を養い慈しむ。

誰もがあるがままで尊いのです。

怖れを手放して この世界を信頼したなら、不安は消える。

死すらも恐れる対象にはならなくなります。

人生は長ければ良いというものでもなく

あなたが何を体験したかが大事。

その体験を止める必要はないのです。

どんな体験も最終的にあなたに愛を教えるでしょう。

本当はこの世界に愛されているということを知ります。

命を持って生まれてきたことが祝福なのですから。

誰よりも自らが自分を愛してください。尊い命として。

そして、人を助けた時、またあなたも助けられ

あなたが人を愛した時、あなたも人から愛される。

あなたを愛するのは(他者に姿を変えた)あなたなのです。

あなたが本気で信じる世界が あなたの前に展開します。

美しい地球  美しい日本

あなたは日本の美しさを知っていますか?

あなたは愛の美しさを知っていますか?

あなたはあなたの中の愛を知っていますか?

災害の話題から

近年、大きな自然災害が増えていますね。

激動の時代に突入した と言われてしばらく経ちます。今をピークに前後50年、トータルで100年で世界の意識が入れ替わる と瞑想マスターが言っていました。

今はそのピーク、ありとあらゆる試練に人類は揺さぶられます。

人間自ら愚かなことを引き起こしたり、社会システムが崩壊したり、善良に生きてきてつもりなのに自然災害に見舞われたり。。。

自然災害が起きると被災者の方々は大変困ります。なぜこんな目に合わないといけないのか、

なぜ自分が被災者なのか

大事な人が亡くなったり、家を失ったり、人生が絶望的に感じられたりされる事と思います。

なぜ、神様は私たちをこんな目に遭わすのか 恨めしく思うこともあるでしょう

人生の中の予想外の大変な事。

それは私たちの意識を揺さぶって変容させるきっかけとして与えられます。被災者の方々だけに与えられた試練ではなく、そのことを見聞きする人々まで

それは試練なのです。多くの人々をきづかせるために起きる揺さぶり。

大切なものは失ってみて初めて気付くもの。 依存しているモノが引き剥がされたり、この世は何がおきるかわからないものであること

与えられたものは永遠ではないこと 自分の無力さや、自分たちの無力さ、

逆に、危機的状況における愛の発動。純粋な愛が発揮される機会

助け合うことで実現する 天国式の関わり(与え合いサポートしあうこと)

私たちの力というのは1人だけでするものではない ということ

奪い合うよりも与え合うことで世界は変わる事 地獄とは 天国とは

そんなありとあらゆる諸々の要素が、日常の均衡を破って、目の前に現れる。

エゴはどう動くか、愛はどう動くか あなたはどちらを選びたいのか。

ささいなことにこだわっていたことが いかにどうでもよかったか。

本当に大事なのは命があり愛があること

エゴが吹き飛び、むき身の純粋な愛が現れる瞬間だ。

これまでこだわったつまらないことが吹き飛んでエゴが消えてしまった人。

その生きざまを見る人、揺さぶられる人

悲しみを越えて生きる輝き、

そんな過酷な条件を誰かが代表して体験するのが被災なのです。

少々の事では人間はエゴを捨てない。神様側は小出しに出して試しているようなのですが、

一度に多くを目覚めさせるにはかなりのショック療法が必要らしい。

できれば私たちは早めに気付いて、犠牲は少なくすませたいものです。

関西に住んでいる時は「愛でおまんまが食えるか」なんて言葉を聞きましたが

ここ九州では愛が命を養うのは割と普通な事のように思える。

関西でも愛ある人はいたはず。

私が人を信じていなかったからそういう人ばかりが目に映ったのかもしれない。

この世界は あなたの信じるように動きます。

不信感を持てば、信じられない例を沢山見るし、

信頼すれば 私たちは護られる。

私がどのくらい人を守るかで私がどのくらい守られるかが決まる。

ある意味、そこにいる困った人は あなた自身でもあるのだ。

こんな人が助けられる社会は私が困った時も同じように助けてくる人がいる

あなたがしたことをされる というのはそういう法則で

あなたが他者に何かをする時、あなた自身ならどれほどの思いやりが欲しいのか

迷惑なほど欲しいのか、冷たくされるのか、甘やかされたいのか

人任せで何も自分ではできなくなりたいのか、

怖がっている時、勇気づけられたいのか

イライラして当たり散らされたいのか

失言を重く受け止めて凹まれたいのか

いつまでも傷付いたことを引きずり続けてほしいのか 

 

笑顔と、遠慮と、怒りと、無視と、

あなたはどれが欲しいのか

 

そしてあなたはどれを与えるのか  

自分自身のエゴのすることと、エゴを持った人間をどう許していくのか

 

全ての事象があなたに問いかけているのです。

 

真実は、 あなたも他の人も、 愛で生かされています。

そしてそれぞれの私やあなた自身が愛の源なのです。

そこを発見した時、自分が何を選択したかったのか 何を実践したかったのか

はっきりとわかるようになります。

あなたが出来る方法で 愛で居ればいいのです。他の誰かと同じでなくていい。

ドクダミの花

嫌われがちなこの草の花がどんなに純白で美しいかを 私は知っています。

この植物がどれほど人々を助けて来たことでしょうか。

どんなに良いものでも嫌う人はいます。

それもこれもそっとしておきましょう。問題は、あなたがどう思うかだけです。

魂の体験したいこと

「私の生きる目的は何?」という疑問をもつ方がおられます。

また「私は何のために生きているんだろう?」なんて、1度は思ったことがありませんか?

生きる目的、、、それは ずばり

生きる ということを体験する。

 そこには学びと気付きが満載✨

えっ? 役に立つとか、何かを成し遂げるとか、後世に名を遺す とかじゃないの??と 思うかもしれませんが、

そんなことはありません。それは結果として出てきた物であって 目的ではない。

私たちが生きているのは 生きるという事を体験するため。

そんなの不本意だわ 、意味がわからない と思う方は、なぜそう思うと思いますか?

今まだ全然幸せじゃない  とか  こんなのでは満足しない からでしょうか?

あなたは その目的と思っていたものを達成した後、どうなると思いますか?

なにか、欲しいものや望みがあって、それを手に入れた後、しばらくしてやって来るのは

「それで?・・・」という疑問、何かを手に入れた満足は通過点でしかありません。

例えば、結婚をしたいと思っている人、とりあえずは結婚が目標ですが、

そのゴールの先のことはあまり想像がついていません。

結婚したら幸せになると思っていたけれど。。。 結果はどうでしょうか?

結婚は通過点でしかありません。環境が変わって、また新たな日常がはじまるのです。

何かがあなたを幸せにしてくれるわけではありません。

あなたを幸せにできるのは 本当はあなたしかいないのです。

あなたの在り方があなたを幸せにする。

生きる意味も同じです。

意味は後付けですので、なんとでも言えるのです。

今のあなただって、否定的にも肯定的にも意味付けすることができます。

それは物事のポジティブな面を表現するか

ネガティブな面を表現するかで決まります。

今のあなたに肯定的な意味付けができないとしたら、

それは単に言葉が見つからないだけかもしれません。

また、あなたが肯定するのに必要なハードルを高く設定してしまったがために、

生半可なことじゃOKが出せないような高いハードル、オリンピックの棒高跳びみたいなことになっていたりします。

できないことをできないと地団太踏んで不愉快でいることは 何と言いますか。。。どうでしょうか?

ハードルを下げれば、すぐにOKは出せます。

そんなことで満足する私じゃないの。 って、誰が決めたんでしょうか? あなたです。

え?、お母さん?ですか?お父さん?

あなたはその人たちのために生きているのでしょうか?

その人たちはその結果に責任が取れません。本人じゃないですから。

あなたの人生の結果を受け取るのはあなたしかいません。

だったら、好きに生きる他ありません。

イヤイヤやってる と言いながら、それをさせているのはあなた自身なのです。

自分の行動を決めているのは自分自身。その基準を採用しているのも自分自身。

そのことに気付くと、あなたは選ぶものを変えると思います。

あなたはあなたが選びたいものしか選べないのです。

今選んでいるものを選んだ理由を採用しているのもあなた自身。

他者の価値観やルールに縛られて生きても、その結果はあなたしか責任が取れないのです。

好きなものを選んでいきます。あなたのフィーリングで あなたがうれしくなることを沢山していきます。

そうすれば、あなたは何のために生きているのか?という問いかけをしなくなるでしょう。

そんなことをする必要がなく生きていて楽しく充実するからです。

 

自分の好きな事や楽しい事に 価値を置いていない場合もあります。

それは他者の価値観を採用している時です。

あなたはあなたの感性で優先順位を決めることができます。

あなたの感性はあなた以外にはわかりません。

それぞれの人が同じです。だからそれぞれ、自分の感じるままに生きることを許し合いましょう。

価値観が違う場では生きづらいです。それは当然のこと。

あなたはあなたに合う場所を探す権利があります。

あなたは自由なのです。待っていても、誰かが与えてくれるわけではありません。

でも、あなたが喜んで生きていると、あなたに相応しいものは引き寄せられます。

ですから、あなたはあなたが好きなものを好きだと言ってください。

そして喜んで。

できることしかできませんが、それでいいのです。日々の課題は小さなもの。

結果は積みかさねでできていきます。日々の喜びの積み重ね を増やして大きく育てていくのです。

あなた自身の感性に自信をもってください。そのままでいいのです。

そうやって生きてみて、どうしても摩擦が多いと感じる場合、

何が摩擦を起こしているか 原因が見つかります。

その原因を外していけば、流れはスムーズになります。

そんな作業のお手伝いをするのもアトリエ霽月の瞑想指導です。

 

一人では何をどうしていいか、わからなくて迷子になってしまう というあなたは

ぜひ一度アトリエ霽月で瞑想教師とお話してください。

アトリエ霽月 瞑想教師のカウンセリング 1時間5000円です。

何かを変えたいと思っている方、瞑想伝授コースをお勧めいたします。

日々の瞑想が あなたの中のあなたらしさを輝かせます。

あなたの中に眠るブッダが目を覚まします。